コーヒーのお便りVol.12  パナマと僕

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コーヒーのお便り

「船の規格ってパナマ運河を通れるか否かで決まってるんだよね。たしかオーバーパナマックスって言うんだっけ」
そんなことを当時大学院生だった僕に教授は言った。

僕が青年海外協力としてパナマに派遣されたのは2017年の3月のことだった。

パナマは中米と南米の境目に位置し、左はコスタリカ右はコロンビアに挟まれる小さな国だ。世界中の船がそんな小さい国の運河を通る。
港町は文化が栄えるとはよく聞くが、パナマはまさしく文化の坩堝だった。中米と南米、そしてヨーロッパの文化が混じり合い、黒人も白人も混じり合い、自然と都会も等しく混じり合う。そんな国だった。

 パナマと聞いてピンとくる日本人はほとんどいないほどの小さな国、パナマ。
意外なことに首都であるパナマシティは東京よりも地価が高い。街を歩けばプラダやヴィトンなど高ブティックが立ち並ぶ。その様相は経済的に成功したように見える。
しかしそこからバスで1時間も行かない街では毎日のように銃撃によって人が死んでいた。
僕が住んでいた村も首都から3時間ほどバスで行ったところだったが、お店などはなく、子どもたちは裸足でボールを蹴り、学校には教科書が3冊しかなかった。まるでこの世の富と貧困を集めて両極端にぶら下げた天秤のように僕の目には映った。

そんな小さな村の暮らしの中、僕はその地域で一番大きな規模の小学校の先生になった。
子どもたちの通学路は雨が降れば全て陥没するような土の道で、晴れの日には鶏やイグアナが歩く。どこを見てもマンゴーの木が生い茂り、僕は小腹が空くとたわわに実ったマンゴーをむしり、口にするのだった。

 僕はお世辞にも立派な家に住んでいたわけではない。あてがわれた家はトタンの屋根で、ちらほらと穴が開いている。家には寝室からトイレまでドアが一枚もなく、カーテンもなかったため完全にシースルーな家だった。年中常夏のパナマでは常に半袖だった。ただ、暑いか蒸し暑いかの二つで一年が成り立っている。
クーラーも扇風機も持っていない僕は家の中では上半身裸ですごしており、時折村の子どもたちがわらいながらのぞいてきた。少しだけ動物園の動物の気持ちが分かった気がする。

 学校から帰ると家の中で鶏が家のソファでくつろいでいたことがあった。トイレの便器を開けると中に大きなカエルが行水をしていたことや、猫が晩ご飯の材料をくわえて逃げていったこともある。小鳥がなぜか家の中を羽ばたいていたこともあり、壁にサソリが這っていたこともあった。
いつの間にか僕の心は大抵のことでは動じないようになっていた。

 村で僕はサッカーをした。空気の抜けたボールを穴だらけの空き地で青年たちと蹴り合った。ゴールにはネットが張られていないので、シュートを決めると決められたチームで一番若い奴が走って取りに行く決まりだった。
 初めて参加した時、僕は「チーノ(中国人)」と呼ばれた。その度に「日本人だ」と伝えたが誰も日本と中国の違いなんて気にしていないようだった。一度、「日本は中国のどこにあるんだ?」と聞かれたこともあった。ところが毎日参加し、献身的なプレーを続けるうちに次第に「ハポネス(日本人)」と呼ばれ、1年経つころには名前を呼ばれるようになった。チームが出ている地域リーグの公式戦に出してもらったことがあった。運がいいことに点を決めたため、係の人が記録のために僕に名前を尋ねた。例の如く「おいチーノ。名前は?」と聞いた時、仲間の一人が「こいつは日本人で、名前はケイだ(僕はそう名乗っていた)」とかわりに言ってくれた。
そんなこんなで僕はおそらく日本人として初めてそのリーグに名前が記録され、そのとても暖かな瞬間は僕の心に刻まれた。

 パナマはどの国と同じように様々な問題を抱えている国だった。貧困や暴力、ドラッグや汚職など、日本では隠されている部分が生々しいほど日常的にあった。それでも僕はパナマが好きだった。空き地で寝っ転がりどこまでも蒼く広い空を見上げた時、雨季の毎日のようなスコールで当たり前に浸水する家、暑い昼下がりのマンゴーの熟れた匂い。
そんな世界が、こんなパナマが好きだった。絶妙で不安定なバランスを保つこの国はこの先もきっとあっち行ったりこっち行ったりとフラフラしながらもどうにかバランスを保っていくのだ。陽気な音楽を流しながら一日中ハンモックにゆらりゆらり揺られてた僕のご近所さんのように。

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