深夜特急に憧れて 5 (カンボジア編 4)

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コーヒーのお便り

カンボジアの話はこれで終わりだ。
もっとも、まだまだたくさんの話がある。
カンボジアの虐殺の博物館へ行ったときのことや、ロケットランチャーをぶっ放したことの話など、自由気ままに暮らしていた話はいくらでもある。
だけど旅は次に進まなければならない。足踏みする時間はあるけど、余裕なんていつでもないのだ。
でも最後に、カンボジアでの忘れられない話をしたいと思う。
カンボジアでのボランティアの話だ。

カンボジアはボランティアのメッカだ。
毎年毎年、多くの大学生ボランティアがカンボジアにやってくる。
小学校を建てよう、井戸を掘ろう、ランドセルをプレゼントしよう。
使い古され、何度もリサイクルされたその言葉を胸に、大学生らは目をキラキラしながらやってくる。
僕がシェリムアップに滞在して1週間くらい経った頃、5人ほどの大学生のグループがやってきた。ある大学のボランティアサークルだった。
彼ら毎日朝早くから何処かへ出かけ、夕方に帰ってきた。その後は、貸し切ったドミトリーで話し合いをしていた。
昼まで寝て、どこにも行かずタバコと酒を嗜みながらハンモックに揺られながら過ごす、そんな日々を生きていた僕らにとっては衝撃な存在だった。
ある旅人が、「カンボジアにまで日本を持ち込むなよな」と冗談を言っていた。僕も含めた旅人たちは笑いながら「ほんとそうだよな!日本が嫌だからここまできたのにな」など言っていた。


まさかこの言葉が別の意味で僕らに降りかかってくるとは知る由もなかった。

 社会が変わるためには3者必要だという。よそ者、若者、馬鹿者だ。
馬鹿ではないにせよ、外からやってきた若い学生は僕らの社会を変えるのには十分だった。

彼らに触発された一人の旅人がいた。
彼は「ボランティアっていいな」とだけ呟き、宿から街へと繰り出していった。数時間経った後、彼は大きな網を抱え、帰ってきた。網の中には10個程度の新品のサッカーボールが入っていた。共有テラスでハンモックに揺られていた僕らが「なにそれ?」と聞くと彼はさも当然のように「明日、ボランティアしに行こうぜ」と言った。その一言で宿中が笑い、そして大いに盛り上がった。
それからはみんなで酒を飲み、タバコをふかしながら明日の計画を立てた。共通の目的があると昨日まで他人だった人とも一気に仲良くなり、宿に温かさが広がった。
残念ながら僕は次の日は予定が入っていたので行くことはできなかったが、彼らと計画を立てながら勝手にワクワクしていた。
 
 次の日、大学生のボランティアメンバーがいつものように朝早く出ていった。一方早起きに慣れていない旅人たちは昼近くに出ていった。せっかちな女性と便器の青年も一緒に行った。
それから3時間後、自分の用事を済ませ、テラスでくつろいでいる時に仲間が帰ってきた。「どうだった?」と声をかけると「最悪だった」と発起人が言った。
 彼らは昼過ぎに学校につき、ちょうど休み時間のタイミングで校庭に入った。
クメール語が話せない彼らと英語が話せない子どもにとって、サッカーボールは役立った。網から取り出したボールを次々に空高く蹴り上げ、ボールが弾む音が響くと子どもたちは喜んだ。その後しばらく子どもたちと遊んでいたらボランティアサークルを名乗る大学生がやってきたという。
大学生らは「何やってるんですか?」聞く。「私たちもボランティアをしたいと思ってボールをプレゼントしにきました」と答えると「この小学校は僕たちがボランティアをすることになってるので、やめてもらえませんか?」と言い出したという。
 聞けば大学生のボランティアサークルは運営元があり、それぞれのグループにボランティア活動をする学校を割り振っているらしい。やってきた大学生らはその小学校が担当だったのだ。縄張りを取られたかのような苛立ちを込めて「僕たちがボランティアするのでやめてください」と彼らは旅人たちに忠告した。

 多少揉めたが旅人たちはボールだけ子どもたちに渡し宿に戻ってきたというのだ。
「ボランティアをするのに誰がなんて関係ないだろ。誰になにをするかだろ」そう憤った言葉を僕は今でも覚えているし、賛同する。

ルールと決まりに縛られる彼らはまさしく日本人だった。

 そんな風に僕たちのボランティア活動は思いがけない形で終わった。

夕方、大学生のグループが帰ってきた。
事情を聞いた彼らはバツが悪そうな顔で、「なんか、すいません」とだけ呟いた。直接彼らとは関係はなかったけれど、宿中に気まずい空気が漂っていた。
翌日、大学生らは宿を出ていっていた。

「カンボジアでボランティアをする」
その言葉を聞く度に僕はこのことを思い出す。

さて、次の街に進もう。
ベトナムへ。

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