深夜特急に憧れて 8 (ベトナム編 3)

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コーヒーのお便り

街ゆく人よりもバイクの方が多いと錯覚するような街、ホーチミン
そんな街を形作る1台のバイクに僕はまたがっていた。
ハンドルを握るのは奇跡的に再開した僕にとってまさしく運命の女性。
腰に手を回し、日が落ちた夜のホーチミンを駆け抜ける。文字通り、行先もわからぬまま。

中心地を出て、10分ほど走った頃だろうか、さっきまでの高揚感が嘘のように消えていった。僕の頭の中に30分前に気づくべきだった疑問が浮かぶ。
「あれ、なんかこれ危なくね?」

 人気がなくなり、バイクもまばらになってきたタイミングでシンプルに恐怖心を抱くようになっていく。これは一体どこに連れて行かれるのだろう。無事に僕はホーチミンに帰ることができるのだろうか。そんなことが頭から離れなくなった頃、バイクは止まった。目をあげるとそこには小さなホテルがあった。女性は僕の手を引いて受付をスルーしてあらかじめ部屋が取ってあったのかというほどスムーズに僕を一室に案内した。
 正直にいう。僕の頭の中は恐怖と後悔と下心でもうぐちゃぐちゃだった。あるいは考えを放棄した挙げ句、無の境地だったのかも知れない。とにかく僕は言われるがままにシャワーを浴びた。そして浴室から出ると部屋は少し暗くなっていた。
「うつ伏せになって」と女性はジェスチャーで僕にいう。僕は無言で頷きながらそれに従う。マッサージが始まる。正直上手か下手かも分からなかったが僕は心底安心した。「あ、よかった。普通だ。危ないこともなさそうだ」たいして気持ちよくもないマッサージが逆に僕を安心させる。

 そこから5分ほどしたところだろうか、どこからか電話の音がなった。彼女の携帯だった。彼女はベトナム語で2−3分話した後僕にこういった。「少し行かなければならない。でも安心して。他の子が代わりにするから」
 何に安心しろというのか全く分からなかったが僕はそのままうなずくしかできず彼女は部屋を出て行った。とりあえず仰向けになる。そこにあるのはまさに見知らぬ天井だった。
そして沈黙。静寂。寡黙。空白。ありとあらゆる言葉が「不安」という意味持ち始めた。そしてその刹那、不意に終わりが訪れた。

 突然一人の男性が叫びながら入ってきた。叫んでいたというより、怒っていたに近い。
そして狂ったように、「出ていけ!急げ!」を繰り返す。これほどまでパニックになったことは後にも先にもない。なぜ僕は裸で知らないホテルで知らない人に怒られているのか。
一つだけ学んだのは人間予期しないことが起こりすぎると脳みそがショートして何も考えられなくなる。とにかく僕はここを今すぐでなくては行けないのだ。

 男は僕をそのまま出そうとする。僕はそのまま出ようとする。
しかしこの最後の最後に一縷残った理性が僕にこういった。

「服は着ろ」

慌てて服を着たが、男はなぜか靴下を履くことは許してくれなかった。
そして僕の理性もなぜかそこは妥協した。

 ちょうど20分くらい前に見知らぬ女性に手を引かれて入ったホテルを、見知らぬ男に追い出される。行きは良い良い帰りは怖い。

玄関口にはなぜかバイクに跨った小柄な男が待っていた。僕を突き出した男と簡単な会話を済ませた後、バイクの男が乗るようにジェスチャーした。
相手が誰であるのか、どこに向かうかも分からないバイクの後部座席に1時間に2回も乗るとは思わなかったが、もう僕の情緒はぐちゃぐちゃだった。
とにかくここを離れなければならない。

そしてバイクは5分ほど走り、また急に止まった。「ここで降りろ」とジェスチャー。
冗談じゃない。どこかも分からないところで降りるわけにはいかない。それに僕は今靴下を履いてないのだ。
荷台をつかんで絶対におりないとアピールをする。少し激しい口調で降りるように彼は言うが、僕は折れなかった。ここで降りてしまったらもっと大変なことになるし、僕のこの情緒は誰かとのつながりによって保たれていた。抵抗を続けると男は観念したのかまたバイクを走らせた。

そして路駐しているタクシーの横まで行き「これに乗ってホーチミンに帰れ」と言ってくる。
 日常から非日常に急に切り替わると人はパニックになるが、非日常が続くとそれが日常になり冷静な判断ができるようになる。人間の慣れというのは全く持って恐ろしいものだ。

状況に慣れ始めた僕は冷静にバイクの運転手にこう言った。

「降りて欲しければタクシー代だせ。それかホーチミンまで連れて行け。でなければ絶対におりない」

バイクの運ちゃんは少し悩んだ末、財布からお金お僕に渡した。僕はタクシーの運転手にその場で「これでホーチミンまで行けるか」の合意を取った。そこでようやくバイクを降り、タクシーに乗った。

5分ほどしただろうか見覚えがある街が見えてきて、あの運命の女性と最初に会った公園で僕は降り、ベンチに座った。
その瞬間縮み上がっていた僕の心臓が息を吹き返したかのように酸素を取り込み始め、安堵した。あぁ、無事に帰ってこれてよかった。生きていてよかった。

サウナの後に水風呂に入ってその後外気浴することで交感神経と副交感神経があーだこーだで整うというけれど、まさにそんな感じだった。幸せからの恐怖、そして安堵。
一つ異なっているのは、一切整わなかったことだ。
何はともあれ、僕は帰ってきたんだ。落ち着くためにタバコでも吸おう。あと、靴下を履こう。
そう思って僕はリュックを開ける。そして僕の心臓はまた高鳴り始める。
入っていたはずの荷物が忽然と姿を消していたのだ。

次回・ベトナムの警察署に行く。

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