深夜特急に憧れて 1

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コーヒーのお便り

 僕が初めてバックパッカーを始めたのは大学2年生が終わる春、
ちょうど20歳になったときだ。
母親から成人祝い何が欲しい?と聞かれて、
「パスポートをとるからそのお金をくれ」
と可愛げないことを言った記憶がある。

僕の初めてのバックパッカーは東南アジアだった。
物価の安さや、治安、そして日本からの距離など、全てにおいて手頃であるため、
初心者バックパッカーの入門として有名だったのだ。

「一ヶ月、生き抜こう」

それだけが僕が道中に決めたルールだった。
出国予定日からちょうど一ヶ月後にタイから日本に帰る飛行機のチケットだけ取って
僕は成田へと足を運んだ。
当時はまだスマホが普及し始めた頃で、
今のようにホテルのブッキングサイトが普及しているわけでもなく、情報もまだ紙媒体が主だった。
毎日自分の泊まる場所を自力で見つける。移動のチケットも全て現地で手配する。
今思えば当たり前のことなのだけれど、当時の僕に取ってとてつもなく勇気のいることだった。

 旅のルートは大まかに決めていた。タイに飛行機で入国し、東に位置するカンボジアへ向かい、アジアを横断する形でベトナムを目指す。そしてそのままベトナムを上へ縦断し、ラオスに入り、タイに戻る。反時計回りでくるっと東南アジアを回るルートだ。移動は全て陸路のみとした。幸いなことに日本のパスポートはカンボジアを除いてビザを必要としない。そういう意味でも初心者向けのルートだった。
 
 そんな僕の初めてのバックパッカー、東南アジアの旅はとにかく楽しかった。
 タイの空港につくと2月の日本から来た僕を常夏の蒸し暑さが包んだ。空港から市内へは電車を使うことにした。お金をかければ快適な専用バスやタクシーで中心街まで行けるのだが、
いかんせん僕にはお金がなかったのだ。
 おおよそ駅とは言えないような空き地に砂埃にまみれた電車が不気味な軋む音を響かせながら滑り込んだ。電光掲示板も案内板も無く、行き先が合っているのかわからない電車に揺られ、
僕は旅の始まりに少しの興奮を覚えた。
 電車には人はほとんど乗っておらず、ガラガラだった。窓が全開で走っていたため、砂埃を含んだ風が勢いよく車内を走り去る。その風に身を寄せながら僕はただ景色を眺めていた。しばらくして座っていることに飽きた僕は車内を歩くことにした。と言ってもどこまで行っても同じような作りが続き、二つ車両を移動しただけで飽きてしまった。
 走行中、電車の連結部分のドアは開けっぱなしで、ドアからドアのスペースは一歩間違えれば落ちてしまうような不安定な作りだった。
ただ、無性にそこが気に入って、連結部分に腰掛けタバコをふかした。
なんだかわからないけれどそうしたかったのだ。
そして風景として過ぎゆくトタン板とビニールシートの家を眺めている時に初めて
「旅の醍醐味」を知った気がした。

 タイについた旅人がまず目指すのは、「カオサンロード」と呼ばれる地域で、すべての旅の出発点だ。旅人の中では「旅はカオサンから始まり、カオサンで終わる」とまで言われている。
 砂煙が立ち込め、怪しげな露天がならび、現地の人が大きな声で話し込んでいる。
そんないかにもアジアらしい光景を想像していたが、実際は全く違った。
 実際にはあたり狭しとギラギラのネオンとレストランが並び、誰でも知っているようなロックが四六時中爆音で鳴り響いていて、さながら町全体がダンスホールと化していた。
カオサンは旅人の街であると同時に、外国人のために作られたバカンスの街でもだった。
誰もがタンクトップとサンダル、ビールを片手に遊び歩き、現地の商売人は片言を英語を話し、物を売る。そんな混沌とした街にしばらく滞在し、僕は英語を学んだ。
 
 当時の僕の英語力は酷いもので、Be動詞でさえろくにわかっていなかった。
だから僕はバカンス真っ只中のヨーロピアンの後ろをこっそりついて回り、屋台での注文の仕方やホテルでの部屋の取り方をこっそり盗み聞きした。それを我が物顔で話すことを繰り返すといつの間にか旅に何不自由なく英語が話せるようになった。
話せないとご飯にもありつけない、もしくはとてつもなくぼったくられるという状況は僕の脳味噌をフル回転させたのだった。

 気づいたら僕は朝の市場で現地民に混ざり10バーツ(当時30円ほど)で食べれるラーメン屋さんに通い、乱立する屋台を冷やかすまでになっていた。
(のちのここは「10バーツラーメン」と呼ばれ日本人の旅人の中で知らぬものはいなくなった。もっとも、その数年後に行くと30バーツに値上がりしていて切ない思いをした記憶もある。)

ところで、
今じゃ信じられないけれど、当時は日本人宿などに行くと「旅のノート」なるものが置いてあって、ここのルートはおすすめだの、最安でビザを取得する方法だの、大麻の購入方法だのありとあらゆる情報が手書きで書かれていた。
当時は、直接人から情報を聞くか、旅のノートを読んで情報を入手するのが主流だったのだ。今思えばとんでもなくアナログな旅をしていたのだ。
そして僕も宿で一緒になった日本人から旅の情報を教えてもらったり、ノートを読みあさって着々と準備を進めていたのだ。
 そしてタイに滞在して1週間ほど経った頃だろうか。僕は初めてバスを手配して、カンボジアを目指すことになる。

当たり前だけど僕の旅は順風満帆ではなかった。
タイからカンボジアに入国するためのバスで運転手からお金を請求され、断ると僕のリュックをバスから捨てられたこともあった。ベトナムでは一眼カメラと有金ほとんどを盗まれた。
また、ラオスでは体調を壊したり、大麻の密売人に騙されそうになったりした。
その一つ一つの経験は今も鮮明に記憶に刻まれている。今も思い出してはわくわするようなことがたくさん起こった。その一つ一つはまたゆっくり書くとしてまずは僕の旅の中でもっとも記憶に残るカンボジアの話をしよう。

今もなお、カンボジアでの出来事は僕の人生で忘れられないものとなっている。

つづく

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