初心者のための教育哲学 ーアマラとカマラにみる教育の暴力性 ー

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教育哲学




・本講座のコンセプト




この講座のコンセプトは、

みなさんの(教育)哲学に対する
イメージを、


「わからない」




から





「わかったようなわからないような」





というステップまで引き上げるという



エコ、低姿勢、低ハードル

です。

さらに付け加えるなら

言い訳満載です


です。




はい。皆さんこんにちは。


えー前回、

教育への眼差し

というテーマでお話しさせてもらったのですが、



今回はもうちょっとだけ踏み込んだお話をしたいな、と思いまして。



テーマは




教育の暴力性





です。


どうですか?ドキッとしませんか?



一般的に、

教育と暴力が結びつくイメージはないですよね。


どちらかと言えば、


子どもはみんな笑顔でー、


とか

すくすく育ってー



という感じで、
すこしハートフルな感じがありますよね。




もちろん、体罰とか、虐待というそういう意味での
暴力はありますが、


今回お話しするのは、




教育そのものが持っている、
(内在している)




暴力性



についてです。




僕はこの観点がすごく好きで

そりゃもう、ニヤニヤしながら勉強したもんです。





ということで、今日はその
教育の暴力性について考えてみましょう。



 

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アマラとカマラ




教育の暴力性というテーマを考えるにあたって、


アマラとカマラ

の話は欠かせないと僕は思います。


アマラとカマラというのは、



狼に育てられた子ども


というやつです。


おそらく、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

ちょっとしたあらすじ

(諸説あるのですが、とりあえず一般的に語られてる説で)

アマラとカマラは森の奥深くで発見された。

まだ二人とも幼い子どもだった。


普通に成長していれば言葉を話してもおかしくない

年齢ではあったが、彼(女)らは人の言葉を知らず、

唸り声を上げるだけだったという。


また、二足歩行ではなく、四足歩行を好み、

人間というよりも獣に近い存在だったという。





しかし、森の中でどうやって生きてきたというのだろうか。




その森には狼が住むこと、

彼らの立ち振る舞い、
四足歩行をし、生肉を食べ、丸まって寝る

ということから



この子どもたちは狼によって育てられたのではないか、

という噂が立った。



その噂を聞きつけ、
孤児院を経営する一人の男性が

その子どもたちを保護するとして、

孤児院へ連れていった。





孤児院の中で、

彼は、子どもたちに人間の言葉や生活を教えていった。


彼らは生肉を食べることを好んだため、

調理したものを食べさせるようにした。


服を着ておらず、
着させてもすぐに脱ぐ、もしくは破ってしまうため、

部屋の温度を下げ、服の重要性を教えた。


言葉や、歩き方も教え出した。


いろいろな道具の使い方を教えた。




最終的に二人とも死んでしまうが、

終盤では、歩くことができるようになり、
また、言葉を話すようになったという。



・・・・

これがザッとしたあらすじです。

この話の信憑性はいかがなものか、
と指摘する声はたくさんあるものの、



今回はそこには触れないでおきましょう。



さて、このアマラとカマラの話から
少しずつ教育哲学の話に移っていきましょう。




教育と文明化

さて、

このアマラとカマラの話を読んで、

どう思いますか?



いい話ですか?

よかったと思いますか?



賛否はあるとは思いますが、

それはさておき、


お聞きしたいことが一つ。


男性がおこなった行為、






これは教育でしょうか?





即答はできないにしても、


どちらかと言えば、教育だ


って思う方が多いんじゃないかと。





言葉を教えて、

服や道具の必要性を教え、

立ち振る舞いを教える。



この行為そのものは、
生まれてきた子どもに
各家庭が行うことと同じですよね。



広く見れば
学校でも行われていることでもあるわけで。




そうみれば



この行為は教育だ




と言えますよね。




さて、ここからが面白いところ。




結論から言えば、

つまるところ、



教育とは文明を教えること、


すなわち


文明化させることである




ということができますよね。



もうちょっと詳しくすると、



子どもというのはまだ、文明、社会の一員ではないわけです。

まだ、何も知らないわけですから。


そこに大人の手によって、


様々なルールを学び、


文明の一員として、

社会の一員として、



社会に組み込まれていく。





このように



教育には社会化の機能がある



言われています

(最初に提唱したのはパーソンズだったかな)




つまり、教育とは、



まだこの文明、社会にいない人を

文明の世界に連れて行く


という一面があるといえるわけですね。



じゃ、それのどこが悪いんだ。



どこに暴力性があるのだ



という話です。




いいじゃないか。
アマラもカマラも人間らしくなって
よかったじゃないか。




・・・・・


本当にそうですか?





じゃ、
教育の暴力性とやらを

アマラとカマラを例に
なぞらえて見ていきましょう。




アマラとカマラと文明化



アマラとカマラは、

ある男性によって


文明化を始めるわけです。



生肉から加工済みの肉を食べるようになり、

人語を用いるようになり、

立ち振る舞いを気をつけるようになったわけです。



つまり、彼女らは、




文明化された





わけですね。


ここまではいいですね。




ではここで、


一つ質問。




彼らが最初に持っていた


彼ら自身の文明は、







どこへいったのでしょうか?






 

・・・・
どういうことか。


彼らは
もともと、四足歩行で、生肉を好み、
まるで狼のような生活をしていたわけです。



まさに、自然の状態

(文明と相対する、という意味で)




しかし、


それを文明は許さないわけです。



彼らの言葉ではなく、
人の言葉を話させ、



彼らの歩き方ではなく、
人の歩き方を教える。



彼らのルール、世界観は
否定され、



人間のルール、世界観
が重視される。



こう書くと少し強烈ですが、



でも私たちは常にこういうことを行なっているわけです。


学校に行く、


ひらがなを覚える。

席にじっと座っている。

人の話をよく聞く。



こういうことを知らず知らず、





当たり前に

子どもたちに対して行うわけです。




それはすなわち、


彼らが持つ自然を否定し

こちら側の文明に引きずり込んでいるわけです。




いやいや、
おきくさん。


そんなこと言っても
子どもたちが生きるためには必要なんだ。







と思うでしょう。



そうなんです。







そこに教育の暴力性が

潜んでいるのです



わかりやすくいうと、


子どものため



という大義名分を掲げ、
私たちは教育を行うわけです。

でもその教育というのは、



その子どもたちが持つ自然的な側面を
私たちの文明という側面に塗り替えてしまう。




そして特筆すべきは、




その流れからは誰も逃れられない




ことです。


つまり、




人は必ず教育を受けなければならない


必ず文明化、社会化しなければならない


その人間が持つ自然は、必ず否定されなければならない。





という前提があるわけです。




これが教育の暴力性なわけです。




アマラとカマラは結果的に死んでしまいます。

死因は病気なのですが、


そこを深読みすると、



文明化しない、
(教育を受けない)

場合、



そこには「死」


しかないわけです。




たった一言で言うと、


教育は全員受けろ、
世界のルールを受け入れろ。

さもなくば死


という前提を押し付けているのが、

教育なわけです。



あーこわいこわい。


これが教育の暴力性。






わかったかな?




わかったようなわからなかったような?



それでいいです。
はい。







おまけ

 

もちろん、
この話自体には賛否両論あるし、

僕もすこし極端に書いたので、

見る人から見れば適当なこと言いやがって

と思うかも知れませんが、



それでもこの暴力性を
否定できない部分はある、と思います。


ま、これも初心者のため、ということで、

あー確かに言われて見ればそうかもなぁ。。



と思ってもらえればそれでいいのです。

(言い訳ね。)

 




ちなみにですが



かの有名な

ドストエフスキー

人間について、こんなことを言っています。



「人間はいかなることにも慣れる動物だ」




僕たちはいつの間にかこの文明に慣れ、

そして、

それを継続させて行くという仕事に慣れています。


それ以外の発想は消えてしまっています。


要は、僕たちの「自然」はすでに「文明」によって
消されてると言っても過言ではないかと。


それは僕たちが教育を受けてしまったからだからです。




とまぁ、

こんな感じで、

重箱の隅をつつくような、

それでいて


確かにそうかもなぁ。。。


と思ってしまう部分を

ひたすら考えるのが、


教育哲学の基本的な姿勢です。



教育は

良いもの
暖かい


という前提をひたすら疑い、



新たな側面を見出して行く。


それが僕たち、教育哲学者の仕事なわけです。




(おめー教育哲学者じゃねぇだろ!というツッコミはやめてください
傷つきます。自称ですから。)



はい。なんとなく教育哲学わかったかな。

次のテーマは。。。

良い教育とはなにか。




主体的な学びの限界性

とかそこらへんいこうかな。

じゃ、また!







コメント

  1. zelma より:

    Waiting patiently for you to come home and fuck me! https://bit.ly/3UIKI2R