初心者のための教育哲学ー教育学と教育科学ー

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教育哲学

・本講座のコンセプト




この講座のコンセプトは、

みなさんの(教育)哲学に対する
イメージを、


「わからない」




から





「わかったようなわからないような」





というステップまで引き上げるという



エコ、低姿勢、低ハードル

です。

さらに付け加えるなら

言い訳満載です


です。




こんにちは。

今日のテーマは


教育学と教育科学


です




まずはじめにみなさんに一つご質問。


教育科学とは何か。


聞いたことありますか?



おそらく、これを知っている。聞いたことがあるという方は
相当な教育マニアなんじゃないか、と僕は思うわけです。




僕は教育科学という考え方がすごく好きなわけです。

これを修論で書こうと思ったくらい。




今からその教育科学とはなんぞや、

という話をしていくのですが、


どうかみなさん、

僕のことを


ひねくれてるなぁ。。


なんて目で見ないでください。


じゃ、
本編行きますか。




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教育科学とは何か

 

遠回りのようですが、

まずは最初に教育(学)というのを改めて確認してみましょう。



教育(学)とは

 

以前、この記事で書いたように

教育学というのは非常に曖昧で、

いろんな分野が絡まりあっているものです。


そうなると

その行為、


すなわち「教育」は必然的に

曖昧なものである、
といえそうですね。



何をもってして、教育なのか、


なにが「教育」を「教育」とさせるのか


ここが非常に曖昧。




もうちょい具体的に見て見ましょう。


例えば、


・家の手伝いをする、


・家族の会話を聞く


・近所の魚屋さんでお使いをする。



こういうありふれた日常は、

教育と言えるのでしょうか。



ま、これは


教育だ


と多くの人が言うでしょう。




では、


・教師が学校で勉強を教える。





こう言うものはどうでしょう。



これも教育ですよね。


(それは勉強だ、と指摘するのはやめてください。
話が進まなくなる 笑)





じゃあ


両者の教育に違いはあるのでしょうか。





同じ?違う?



ここに

教育学と教育科学を捉える大きなヒントが眠っています。




じゃあ、それはなにか、

という話をしましょう。



教育科学を捉える視点

 




たった一言で言うと、
それは


偶発的なものか





意図的なものであるか



で分けてもいいと思います。



つまり、
教育は

大きく分けて、



偶発的に行われるもの







意図的に行われるもの、



に二分されます。



これが

教育を捉える上で非常な視点となるわけです




そして、教育科学とは、


教育を意図的に行う。


つまり、科学的な視点で見ようじゃないか。


という考え方から成り立ってます。


つまり、理論的なものであり、


科学のように再現性があるというのを


土台にしています。



水は100度になると沸騰を始める。

これは

誰がやっても

どの水でも

どの国でも(山頂とかを除いて)



同じことが起きますよね。

それは科学的に証明されている。


そして科学的に証明されているということは、


再現性、

つまり、必ず同じことが起きる



ことを意味しています。



すなわち、

教育科学とは、


子どもに対して、

こういうことをしたら


必ずこういう結果が得られる



というそういう科学的な視点から見ているわけです。



そんなこと言うと、

すげー嫌な顔する人が世の中にはたくさんいます。


いやいや、


十人十色だ!

とか

個性がどーたらこーたら

って。



そんな人のために、
もう少しだけ、解説しましょう。



教育を科学する、とは



まず根本的な考え方として、

教育を一般化して考えることです。


つまり、

OO小学校のAくん


ではなく、

「子ども」

として捉えるわけです。


富士山の水、とかではなく、

「水」とするように。


その上で、


子どもにこれをこうすれば結果こうなるよね。

ということを科学的考えよう。
意図的にそうさせよう。


そういう考えが教育科学にあるわけです。




ということで、
今からそういう話をするのですが、





いや、ほんと、

現場の先生とかに
こういう話すると



子どもは一人一人生きていて、


授業は生モノで、


一人一人の学びは違って!!


個性がどーのこーの!!



要は、


子どもを意のままに操るという感覚を

どうしても受け付けない人が多い




気がする。
たぶん。




ま、とにかく、

そういう感じで本当に怒るので、



僕も助っ人使います。


教育科学
のビックボス、



ブレツィンカさんです。



彼はこう言う。



「教育学」と称されているものは

全て科学であると言う幻想を打破する必要性があり、

教育的言明体系を、科学性の基準に従って吟味し直し、
その目的、価値に応じて峻別していく勇気が求められる。

(『教育学から教育科学へ』より)


・・・
まぁ、この後にいろいろ続くのですが、

要は



いろんな文脈で教育というものが語られているけれど、

結局

何がなんなのか。

教育という言葉で全て誤魔化すな。


だからいつまでたっても教育とはなんぞや


というのに答えが出ないんじゃい!


もっと言えば、理論と実践が喧嘩ばっかしてるんじゃい!


ということを主張するわけです。



曖昧なことを取っ払って
細く丁寧に科学的な視点で、教育という営みを
捉え直そうじゃないか。


ということ。


うーん!!
渋い!



じゃあ具体的に見ていきましょう

(ブレツィンカの言葉をてがかりに)


教育科学からみる「教育」



先ほども言ったように
まず教育には2種類あります。



意図的か、否か。

です。


例えば教育界のマイケルジャクソン、



J・デューイは、
こんなことを言ってます



学校の存在意義は、

意図的な学びを行うためだと。

。。。。
要は、各家庭でもそれぞれ教育が行われているけど、

じゃあ、両親がいない子にとってはその場がない。

さらに、地域や家庭環境でも異なる。



つまり、このような

偶発的な学びには差が出てしまう。



だからこそ、
せめて学校だけは、

みんな同じようなことを学べる場所であるべきだ。
(意図的に)



というような趣旨のことを言っていた。気がする。
(『学校と社会』の中で)




となると、
やはり、学校の教育というのは意図的なものである。



では、
意図的なものであるからには、

そこには、


目的
があるわけですよね。



そしてその目的とは、




教育者、いわゆる先生が、

子どもに対して、何かしらの方法で(すわなち授業を通して)


達成してほしいものであるわけです。



つまり、それこそが、


子どもをこうする。

ということであるわけですよね。




・・・

もっとわかりやすく。。。


なぜ、授業には

「めあて」

とか

「目的」


が存在するのでしょう。


もっと言えば、


なぜ

単元があり、

学習指導要領があるのでしょうか。



それは他ならぬ、

子どもが達成すべき目的を用意しているからですよね。


そして、

教師は授業を通して、それを達成させる



これってどの教師も行なっていることですよね。



つまり、

どんな先生でも、


教育科学の立場、


すなわち、子どもにこーしたらあーなる。


という前提に立っている。ということです。

気づいていないだけで。




つまり、

どんな先生も、


無意識的に


子どもを、


意のままに操ろうとしているんです!!

どどーん。


「計画した授業をする」
ということはそういうことなんです。




いやいや、

子どもはいろんなことを学ぶ!!

授業だけでなくいろんなことを!!

私たちが気づかないことを!知らぬ間に!

子ども同士で遊んだり、関係を持っていろんなことを学ぶのです!!


みたいなことを言う人もいるでしょう。


えぇ。その通り、

それは通称

隠れたカリキュラム

と呼ばれるやつですよね。



でも、そもそも学校というのは
意図的な学びを発生させるための装置であるわけなので

それはおまけなわけです。




その隠れたカリキュラムを重視するなら、

家庭の教育、社会の教育との違いなんてなくなってしまいます。

偶発性な学びは、子どもによって差ができてしまう。



それは、ダメでしょう。



そういう余計なものをくっつけるから

余計に教育の輪郭がぼやけてしまう。


これを痛烈に批判したのが、



ご存知

上野千鶴子。

東大の入学式の言葉が話題になったあの人です。


彼女はこう言います。



子どもたちは学校を面白いと思ってきていますか?と問うと、

ある先生が子どもたちは学校へ来るのが楽しいと言ってます

と答えて、挙げた理由が、放課後のクラブ活動だったり、友達に会えることでした。

語るに落ちるとはこのことです。授業はハナから問題にされていないのです。

学校という制度が提供する最大の商品である授業で勝負できなくて、

学校は、そしてその商品提供者である教師は、これからどうするのでしょうか。

(『サヨナラ学校化社会』より)



ま、要するに、

学校が授業という営みをメインに据えなくてどうするんじゃ。

という話です。



要は、授業での学びが最大の目的であるべきだ。
ということであり、

それはすなわち、


教師側が意図した目的を子どもたちに達成させることに全力出せよ。


ということなわけですね。



そして、
じゃあ、どうすればそれを

いかに効率よく、そして確実に達成させるか、

という時に必要なのが、

そう、


教育科学なわけです。








あー。。。
長くなったし、寄り道してしまった。。。


もうこの辺にして、続きはまた次回以降。。。




まとめ。。。られてはいない。

 

ということで、

本当は教育科学とはなにか。

ということを書こうと思ったけれど、
なんだか、脇道に逸れたまま帰ってこれなくなってしまった。



でも、こういう考え方がある、ということだけは

わかっていただけただろうか。

よく教育界隈で

理論と実践の乖離

というのがキーワードとして上がるけど、


その隔たりを埋めるには、

まずはこういう視点がある、ということを

理解する必要があるんじゃないかと。


理論だけじゃ役立たない、
と言う実践家も、


実は無意識的に理論、
つまり教育科学的な視点に立っているのだから。




・・・
ね。ひねくれた考え方でしょう。


でもこういう

教師の存在意義

とか、

学校教育

とか、

そういうのを曖昧にしてると



冒頭に書いたように、

いつまで経っても、
理論と実践は喧嘩するし、

教育は曖昧で、


輪郭はぼやけたままになってしまうのです。




おわり!!!




。。。

わかったかな?



わかったようなわからなかったような?





それでいい。


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