フリースクール その歴史と社会背景

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教育哲学



・本講座のコンセプト




この講座のコンセプトは、

みなさんの(教育)哲学に対する
イメージを、


「わからない」




から





「わかったようなわからないような」





というステップまで引き上げるという



エコ、低姿勢、低ハードル

です。

さらに付け加えるなら

言い訳満載です





はい。ということでみなさん
改めましてこんにちは。

前回があまりにもしょうもないのしか書けなかったので、
今回は
本気で書きます。

でも
きっとすごく長く書きそうだから
とりあえずは3000文字くらいで収めたい。。。





さて、
じゃ行きましょ。

 

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フリースクールの歴史的変遷




まずここでは、フリースクールがどのように意図をもって誕生したかを
書いて行きます。

ところどころ論文から引用するね。


フリースクールの誕生

 



さて、まずはフリースクール界の重鎮達が
フリースクールの誕生について

以下のように述べています。



 全米フリースクール連合の代表であるモンゴメリー(1984)が「フリースクールの出発点は学校教育の現場の批判にあると言えます」と述べるように、フリースクールは学校批判の意義を持ち誕生してきている。また、「フリースクールの古典」と称されるA・Sニイルの設立した「サマーヒル」(1927,イギリス)も、学校を含めた社会批判としての意義を有していることが確認されている。




はい。
このフリースクール界の2大トップのお二人が、


フリースクールは公教育(前回書いたような一条校)を批判するために
誕生したとしてますね。


これがフリースクールの起源なわけですね。
(メモメモ)


ところがどっこい。
日本のフリースクールはちょっと違う形で誕生した。

(ここ大事)



じゃあ、
どんな形で、どのような意図で誕生したかを
日本フリースクール界のボスである、
奥地圭子さんの言葉を紡ぎながらみていきましょう。



ちなみに彼女は
日本のフリースクールの草分け的存在である


「東京シューレ」を設立、

現在も、「NPO法人全国フリースクールネットワーク」の代表であり、

行政にもフリースクール側の代表として関わっているすごい人。


日本のフリースクールの誕生

 

不登校との出会い




日本のフリースクールを語る際、
やはり、不登校は欠かせない。

(不登校については前回記事


というのも、
日本のフリースクールの基盤となっている、



「東京シューレ」が誕生したのは、


奥地の息子の不登校がきっかけだったからである。


まずは、
息子が不登校になった時の心境をのぞいてみましょうか。





長男の登校拒否が始まって二年間は、情報の少ない中で、自分のまちがった常識や、“子
  どもは学校へ行くもの”という固定観念で、学校へソフトに強制して行かせつづけ、 
  ついには拒食症にしてしまった経験を持っている。それは今でも、子どもを追い込ん
  だ責任を負っているものとして、子どもに申し訳なく思っており、このようなあやま
  ちと苦しみでダメにされる子どもがいないようにすこしでも自分の経験を分かち合え
  たら、というのが、私の今日の活動の原点にもなっている。



『不登校とはなにか』の記事で書いたように、

当時は社会全体が学校へ行くことが当然であり。

さらに、不登校は病気である

そんな風潮があった。


奥地も例に漏れず、その一人だった。



だからこそ、その経験を活かして、

多くの保護者や、学校関係者との交流を行い、


第二の被害者を減らすための活動を始めた。


そんな中、
保護者達といつも話題に上がるのは、



子どもたちに居場所がない


ということだった。



学校に行かなくていい、そう伝えて
子どもの精神は安定したが、
毎日毎日、退屈そうである。


と。


そういう要望を受け、

奥地は、
1985年3月、東京の雑居ビルの一室を借り、

「東京シューレ」を設立したのである。



この東京シューレの設立の経緯をみて分かるように、
日本のフリースクールは
不登校生の居場所を作りたいという要望に応えるために設立された。

つまり、


「病院のように、治療対象にするのではなく、

施設のように特別生活訓練をするのでなく、

行政の設置した情緒障害児短期治療施設や相談学級のように、
学校へ戻すことを目的とするのでなく、

子どもが安心していられる場」

として設立されてきたのである。




とまあ、ざっと
歴史を眺めてみましたが、

日本のフリースクールは
不登校ありきで誕生したことがわかる。




もちろん、
冒頭に紹介したニイルたちの

公教育への批判という機能を持たないというわけではない。

ただそれよりも


居場所の確保、

という意義が前面に出ている、

という話である。


フリースクールの社会的な位置付け


このように誕生したフリースクールだったが、

じゃあいったいどのように


社会から受け入れられていたのだろうか。


当時の日本においてフリースクールとは、
あくまで単なる民間施設としての位置付けでしかなかった。


ただの場であり、

社会的に認知されているとは言いがたく、

その重要性もまた知られていなかった。

むしろ、



奥地が「東京シューレ」を設立した当初は、行政や学校側から

「子どもを甘やかすから余計に学校に来なくなる」と

批判されるくらいだった。



すごい時代だよね。本当に。




そんな中ある事件が起こる。





そう、「不登校とはなにか」で書いた


あのやっちまった事件。



新聞や、国がひたすら
無茶苦茶なことを言いまくった事件ね。


その記事は前回のを参照してくだされ。



さて、
そんな記事がでたあとのお話。



ちょっと長いけど、
以下引用



 この記事の2ヶ月後には奥地らを中心に、
抗議のための緊急集会が開かれ全国から800人余りのフリースクール関係者が集まり、
世間の注目を集めた。


奥地はそこで、不登校がまるで病気のように扱われ、
早急に治すべき対象であることに対し真っ向から反対した。
さらに翌年には、奥地の著作である
『登校拒否は病気じゃない-私の体験的登校拒否-』(教育史料出版会 ,1989)が刊行され、
従来までの登校拒否を病気であり治療対象と捉える認識、
換言すれば学校の絶対性や不登校を治療対象と捉える現状への批判を展開し、
不登校の原因を個人ではなく、社会、そして学校に還元するように訴えた。
朝倉(1995)によればこの時期を境に、従来の登校拒否の認識の転換が行われたという。
例えば、手引書から10年経った1992年に文部省は不登校問題について以下の様に述べている。



  登校拒否問題についてはこれまでは一般的に、登校拒否になった児童・生徒本人の性 
  格傾向などに何らの問題があるために登校拒否になるケースが多いと考えられがちで
  あった。しかし、登校拒否となった子供たちをみると必ずしも本人自身の属性的要因
  が決め手となっているとは言えない事例も多く、ごく普通の子供であり、属性的には
  特に何ら問題も見られないケースも数多く報告されている。




はい。
こんな感じになったんですね。

噛み砕きましょうか。


要は、キレたんですよ。

不登校生の保護者やフリースクールの関係者が。



そりゃ。あんな記事を書かれればキレますよね。


そんで、集会を行った。

そして宣言したんです


不登校は病気じゃない!!
それに原因は社会、学校にある!と。



そしてそれが、

たちまち多くの保護者へと伝わり、

最終的には国の認識を変えることになる。



今まで不登校は子どもや、
家庭に問題があったから起きると考えてきましたが、

普通の子でもなるっぽい。
家庭が本人に原因があるとは言えないかも知れん。


そういうような趣旨の文章が、

文科省から発表されました。



そして
最後には、

「どの子にも起こりうる」と言うくらいにはなったのでした。




とは言うものの、

責任は学校にある、とは認めなかったんだけどね。


まとめ

 

 




ま、こんな感じで、

日本のフリースクールは、
不登校の子どもを持つ親達や、フリースクール関係者が

行動を起こし、社会を変えていったわけです。




そしてそれと同時に、
フリースクールが、

学校としての受け皿から脱却し、

新たな学びの場としての市民権を獲得し始めるわけです。



じゃあ、どのように、
どんな風に変わっていったのか。

そんな話を次回しましょう。


えー
わかったかな?

わかったようなわからないような?




それでいい!!




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