西の魔女と外山滋比古が死んだ

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ただの戯言

外山滋比古が7月30日、この世を去った。

 

「外山滋比古が死んだ」この知らせを聞いた時
「西の魔女が死んだ」時よりも、僕に衝撃が走った。

「西の魔女が死んだ」は梨木香歩による日本の小説で、
主人公のまいがおばあちゃんと共に時間を過ごす中すこしずつ大人になっていく、
そんなストーリーだった。
タイトルの通り西の魔女、つまりおばあちゃんは死んでしまい、
その死をきっかけにまいの回想が始まるという構成だ。

そして僕も同じく、
外山滋比古の死によって回想がはじまったのだった。

(Wikipedia)
外山滋比古(とやま しげひこ、1923年11月3日 – 2020年7月30日)は、
日本の英文学者、言語学者、評論家、エッセイスト。文学博士。お茶の水女子大学名誉教授。全日本家庭教育研究会元総裁。専門の英文学をはじめ、言語学、修辞学、教育論、意味論、ジャーナリズム論など広範な分野を研究し、多数の評論を発表した。
長年、幼児・子供に対する「ことばによる情操教育・知育の重要性」を提唱してきた。

こんな人である。

僕がなぜこの人に惹かれているかというと、
僕は教育哲学を専攻し、家庭科・英語(言語学)の免許を取得し、
言葉が好きなのである。
要は外山滋比古と気が合うのである。

それはさておき、まいのように、僕も回想に移ろう。

僕が外山滋比古と出会ったのは、高校生の頃だったから
もう10年も前になる。

不登校時代の頃から僕は本を読む大人しい子どもだったため、
常に「本」の存在は身近にあった。
高校生になっても暇さえあればふらふら図書館に行って本を物色するのが日課だった。

そして僕は「思考の整理学」と出会った。
この人は何でこうも僕の心を代弁することができるのだろうか。
胸の雲霧をいとも簡単に晴らしてしまうのか。

自由の森学園という少し変わった学校に行っていた僕は
他学校生徒との比較や学ぶこと、生きることそんなことに
どこか悩んでいたのだが、西の魔女がまいの気持ちをそっと汲み取るように、
僕の心を代弁してくれたのだった。


外山滋比古といえば「OOの整理学シリーズ」だ

思考の整理学
読みの整理学
老いの整理学

などのシリーズがびっくりするほどある。

僕がこの人に一生ついていこうと決めたのは
思考の整理学の「アナロジー」という章を読んだ時。
高校生の頃、思わず声が出た。感動した。笑顔が止まらなかった。

是非読んでほしい。
(最後に本のリンクを貼っておくから是非。)

 

 

・・・いや、やっぱり少し言いたいから書く。

外山滋比古の天才的な部分はとんでもない発想を言葉に落とし込めることだ。
この「アナロジー」の章は「言葉は1文字の羅列なのになぜ文章として流れをもつのか」
という疑問から始まる。
「こんにちは」は「こ」「ん」「に」「ち」「は」という5つの独立した音なのに、
なぜまとまり、言葉となるのか。

その謎を紐解くキーワードは「慣性の法則」だった。

外山滋比古の着眼点は本当におもしろい。そして、それを破茶滅茶な発想で結論をだす。
なぜ「言葉」を扱うのに物理学が出てくるのか。
詳しくはぜひ本を読んでみてほしい。

さて、こんな感じで僕は外山滋比古と出会ったのだった。
そして読み耽った。
もちろん時には思想は傾倒しすぎていたり、極論だなぁ、と感じることもあった。
(おばあちゃんがゲンジに対して寛容なのがわからないように、
僕も時折わからないことがあった。)
それでも読み続けた。そして僕の人生のベストに入る作家となった。

そんな外山滋比古が死んでしまった。
悲しいと言うより、驚いた。
幸運なことに祖父母を含めた僕の身内でまだ亡くなった人はいない。
そういう意味で彼の死は僕に取って一番身近な死であり、
10年も前からひっそりと言葉を通して僕の成長を見守ってくれた方の死だった。

「西の魔女が死んだ」は死から物語が始まる。
今回だって、彼の死からまたなにか始まるのではないか、どこかでそう期待している。

すくなくと今僕は改めて彼の本を読み出している。
そして初めて読んだ時の記憶を思い返したり、また新たな発見をしている。
これでいいのかもしれない。

僕に取って彼は、僕の気持ちを代弁してくれて、いろんなことを教えてくれる、
ちょっと不思議な人だった。
いつか僕が死んだ時に一緒にお話してみたい。
そう願わずにいられない人の死だった。

なにはともあれ、
「外山滋比古が死んだ」のだ。

 

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