コペルニクス的転回と人間の限界

スポンサーリンク
ただの戯言
Deep space background with nebulae

「それでも地球は回っている」


そんな言葉を残してガリレオガリレイは死んだ。

彼の功績はどれほどの影響を世界に与えたかなんてことは言うまでもない。
文字通り彼は世界を地球を変えたのだった。

もっともこの礎にはかの有名なコペルニクスの考えがある
彼の思考はコペルニクス的転回と呼ばれ
見ているものを疑い、当たり前を問い直すといういわゆる哲学的な側面を持っている。

彼の考え方を僕はいつでも大切にしている。
というか普段生きていてどうしても思い出してしまう。

電車に乗って、揺れる人を見る時、
街角で人過ぎゆく人を眺めている時
どうしても僕は彼らを他者として認識してしまう。
その人にも人生があり、悩みがあり、愛があり、きっと夢もある。
僕と同じはずなのにそんなことを毛頭気にしない。

でも本当は人はみんな自分という主体を持っている。当たり前だけど忘れてしまう。

気づいたら他者はあくまで他者であって、この世の全ては自分から見た世界で構築されていて
そこで自分はどう生きるかという尺度で生きている。要はみんな自己中心なのだ。

自分を絶対中心に置くし、他者として生きることはできない。
ここに人間の客観の限界があるわけなのだ。

でもこの考え方にやはり一石投じるのはコペルニクス的転回なのだ。

あたかも自分自身を地球として、中心に置いてしまう。
太陽だの月だのを他者として自分の周りに配置し、自分の周りも回っているものとして認識してしまう。

でも、地球(自分)は中心ではないのだ。

このコペルニクスの天体への考え方は
現在にいたるまでの人間の本質に通じているのだ。

自分は本当に中心なのか。地球として真ん中に位置するのか。
いや違う。
あくまで自分は天体の一つであり、何か一つの中心を回っているのすぎない。
そしてその中心にあるのは社会であり、その周辺をくるくる回る僕らがまたその社会を作り、
一つの大きな銀河系を作る。
自分は天体の一つであって、そして自分を含めた銀河を作り、またそこから銀河を眺めているだけ。

自分が誰かを見ている時、それは自分が誰かを見ているということだけではなく、
誰かも自分を見ている。
ニーチェの言葉を借りれば「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているだ」

そんなことを考えれば日々生きている時に
自分がいかに他人を自分という視線から一方的にしか見ていないのかということに気が付く。

他人とのつながりが謳われる今日だけど、
僕はどうしても一方的な矢印が互いに向き合っているだけで
お互いに主体として見合ってるという感覚に近い。
それがいいのかどうかなんてわからないけれど、つながっているという感覚はまだない。

無意識的に自分を中心に置いてしまうけれど、
やっぱりいつだってコペルニクス的転回を忘れずに生きていきたいのだ。

だって、それでも地球は回っているのだから。

コメント

  1. Keurig より:

    Great content! Keep up the good work!