かつて世界を共有した友へ(渋谷とタピオカが教えてくれたもの)

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あるいは全力のことばたち。

 僕が渋谷に初めて訪れたのは確か中学一年生の頃だったと思う。
東京生まれ不登校育ちの僕には当然渋谷なんて縁のない世界だったのだが、
中学校で出会った友人に渋谷生まれ渋谷育ち、悪そうな奴は大体トモダチみたいな奴がいた。

下校時、その友人と帰ることが多々あった。
電車通学だったので、座席に座りながらお喋りして、気づけばその友人の家に泊まりにいくことが増えていた。

 初めての渋谷は当時の僕がそれまで見てきたどの街よりも人がいて、うるさくて、そして野蛮だった。ギラギラと光るネオン、どこからかひっきりなしに流れていく訳のわからない音楽に
クラクラする僕を横目に、友人はさも当たり前の顔して、スクランブル交差点を淡々と歩いていたのだった。
同じ中学一年生なのに別の世界の住人のような気がした。

 当時、思春期真っ只中の僕らの間ではいつだって恋愛の話が盛んだった。
1組のあの子、あいつのこと好きらしいぜ。
マジで?どこ情報?
いや、それは言えない。
えーなんだよー教えろよー!
じゃあその代わりお前もなんか話せよ

みたいな会話をしょっちゅうしていた。

確かその当時、その友人にも好きな人がいて、好きな人に送るメールの文面を一緒に考えたりしたものだった。そしてメールの返事に共に一喜一憂して、ありもしないデートの予定を一緒に考えていつだってウキウキしていたのだった。

 ちょうどそのころ、タピオカブームがやってきていた。
最近のおしゃれでちょっとした定食くらいの値段がするキラキラしたものではなく、当時はまだ「300円程度で飲めるアジアのどっかの飲み物」くらいでしか認知されていない代物だった。

 渋谷には当然ながらタピオカ屋さんがあって、友人の家にいくたびにタピオカを片手に、夜とは程遠い明るさの渋谷をその友人と散歩していた。
 そのうち麻雀ブームもやってきて、僕と友人は夜な夜な二人で麻雀をして、タピオカを賭けたり、時には仲間内の恋愛情報を賭けて麻雀を打ったりした。
 そして次の日の朝は二人して学校サボって目的もなくただ渋谷を歩いた。
意味もなく公園の鳩を眺めたり、道玄坂のホテル街を冷やかしたりして、気まずそうに出てくる男女を眺めていたものだった。

 友人はスケボーに乗っていた。繁華街でド派手な服装をした人や、酔っぱらった集団がいれば流石に萎縮して歩いていた僕とは真逆で、彼はいつも涼しい顔して器用にスケボーに乗っていた。彼にはもしかしたら怖いものなんてないのかも知れない。もしかしたら違う世界線で生きているのかも知れない。尊敬と畏怖の入り混じった感情でネオンの煌くセンター街を颯爽とスケボーで流す友人を見ていた。

ある日彼は学校を辞めた。
一貫校だった僕らは誰もが6年間同じところで過ごすと思っていた。
でも彼は違った。
高校1年から2年に上がるころ、彼は学校やめるわ。と言って辞めていった。
 驚きはしたものの、意外ではなかった。多分彼の可能性は学校で育まれるものではなかったのだと仲間内の誰もが直感的に理解したのだった。

それ以降、彼の消息はよく分からなくなった。
海外に留学しているらしい。絵を描いているらしい。渋谷にはもういないらしい。
そんな噂を聞きながら僕はそうだろうなと思った。

彼の家に行くたびに、彼の世界が絵となって日に日に増えていたことを知っていたし、
一緒に学校サボろうとすると、ごめん。英会話の授業があるからと断られる日が増えていた。

天才は確かに存在するのかも知れないけれど、紛れもなく彼は努力をする人間だった。

 彼の家から渋谷駅までの帰り道、一人でタピオカを買った。
でも甘ったるいだけで全然美味しくなんてなかった。
しょうもない話をしながらギラギラの世界を一緒に歩いてる時、見ている世界が違ったとしてもその瞬間を共に生き、全てを共有しているかのような友情がどれだけ愛おしいものなのか、
その時に気づいた。

渋谷と彼との友情は僕を少し大人にしてくれたのだった。

そして彼は画家になった。ミュージシャンになった。アーティストになった。そして父となった。

今までどうしていきたきたのかとか、とか
これからどうやって生きていくのか、とか

そんなことはもう僕らの中ではどうでもいいことで、
お互いの世界を少しでも共有することや、かつて共有していたという事実があればそれで良いのだった。


ムイちゃん結婚おめでとな。

またどっかで遊ぼう。

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