ハッとする言葉がある。
息を飲む言葉がある。
今までの思考を揺さぶるような、脳みそが揺れ動くような。
そんな言葉に出会うことが、この世界にはある。
これまでたくさんの言葉や文字の羅列に触れて生きてきている僕たちは
それを感覚的に知っている。
そしてそれがごく稀にしか出会えないことも知っている。
目にも見えずただ、流れ去る風のような言葉と
心を刺し、身を焼き、そして温める言葉は何が違うんだろうか。
そんなことを考えたのだった。
少し前、僕は偶然にもそんな言葉に出会った。
一部抜粋し、引用させていただきたい。
「対話の可能性」 鷲田清一
(一部を抜粋)
人と人のあいだには、性と性の間には、人と人以外の生きもののあいだには、
どれほどの声を、身ぶりを尽くしても、伝わらないことがある。
思いとは違うことが伝わってしまうこともある。
<対話>は、そのように共通の足場をもたない者のあいだで、互いに分かりあおうとして試みられる。
そのとき、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しあえずに終わったとき、
「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども理解しえなくてあたりまえだという前提に立場に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる
・・・(中略)
対話は、生きた人は生きもののあいだで試みられるだけではない。あの大震災の後、私たちが対話を最も強く願ったのは、震災で亡くした家族は友や動物たち、さらにはついに”損なわれた自然”をわたしたちが手放すほかなくなってしまった未来の世代であろう。
そういう他者たちもまた、不在のしかし確かな、対話の相手としてある。
この言葉に出会った時、僕はとても悔しかった。
涙が出そうになるほど悔しかった。
なぜ僕にはこんなにも素晴らしい言葉が書けないのだろうか。
思いつきもしないし、言葉にすることができない。
悔しいのだ。
それなりに、それっぽく、それらしい言葉を口にして生きてきた。
そんな僕の言葉と、彼の言葉、ひいては「人の心に生きる言葉」の違いはなんなのだろうか。
そんなことを考える。
多分それはまだ僕が自分の言葉を持っていないからなんだ。
僕の書く言葉は、口から出る言葉は、
辞書から借りてきたもので、人のを真似したもので、
ただ、それだけの意味しか持たない。
でも本当の言葉というのは、
辞書を超えたところに鎮座し、その言葉の表面的な、辞書的な意味を超越したものである。
そんな言葉が、「自分の言葉」なんだ
僕はまだ、持っていない。
僕はまだ、借り物の言葉しか知らない。
それがとても、悔しいのだ。
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