「趣味はなんですか?」
「OOとOOと、あと、読書です。」
定食のお味噌汁のようにいつだって、
「趣味には読書」がセットになっている。
言わないよりかは、言った方がいいだろう。
ひいては読まないより、読んだ方がいいだろう。
そんな思惑が見え隠れする。
江國香織の「なかなか暮れない夏の夕暮れ」のあとがきで、
山崎ナオコーラが「まるで読まないことが不道徳のよう」だと書いているように、
読書が生活の身近にあることが善であるかのような思い込みがある。
確かに僕自身も読書を推奨するし、読まないよりかは読んだ方がいいと思う人間の一人だ。
おそらく誰に聞いても、そりゃ読んだ方が良いに決まってると答えるだろう。
なぜ本は読んだ方がいいのだろうか。
知識が増えるから?道徳心が身につくから? 勉強ができるようになって、良い大学に入れて、 良い会社に入れて、良い人生を過ごせるようになるから?
あながち間違ってない、とは思う。
けれど、実際のところ、あなたが日本を開いたときに、
良い会社に入るための参考書のような気持ちでページをめくっただろうか。
これさえ読めば、豊かな人生を送れると思って登場人物に想いを寄せたのだろうか。
そうじゃない。
ただ、その本をめくるという行為にワクワクしているから今日も本を読むのだ。
読書の恩恵は外的な要因に向いているのではく、
もっと内側に向いているはずなのだ。
もっといえばそれは「自分ではないなにか」に向けられているはずだ。
それは本の中の情景であったり、登場人物であったり、流れる時間だったり。
ただの活字を追う、という行為が気づけば、誰かの人生を追っている。
現実世界ともう一つの自分の世界を夢現のまま行き来する。
この感覚がただただ、楽しいのだ。
江國香織の言葉を借りれば、
「自分が本に指を挟んだままであることに気づき、
左手の人差し指だけがまだあの場所にいるのだと考えてみる」
だから人は本を読む。
僕はそう思うのだ。
そんなことを考えていたら、
なかなか暮れないはずの日がもう、暮れてしまった。
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