「無意味なことと戯言と時々愚痴」のこと

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あるいは全力のことばたち。



諸君!


いや、誰もいないのだけれども

あえてここでは諸君と呼びかけることにする。



さて、
私が日本の裏側に来て,

すでに3カ月の歳月が流れたと思っているが


そうではない。


2週間くらいである。




したがって



少しずつ生活に慣れてきたと言ったら過言である。


そこで私は恥ずかしげもなく正直に言おう。




私は今、生活に飽きている!




他のボランティア達の生活が非常に

輝かしく、また希望に満ち溢れているのを見て



あれ、ボランティア生活って、

なんかそういうもんなの?


という



途方もない寂しさに襲われている。

いや、実際そんなことないよね?



え。そんな楽しい?

ちょっとまって。おいてかないで。。。


そんな不安と葛藤をサクッと背負い込んだ

私は今から諸君らに純粋に愚痴をぶちまけることにする。


史上稀に見る駄作であることから

本当に暇じゃなければ

直ぐさまパソコンの電源を切るか

ホームボタン連打をお勧めする。


後悔はしてからでは遅い。




ということで、二年前の僕の愚痴をお楽しみください。

いや、いいねぇ。

この言葉遊びのくだらなさが本当にいいね。




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本題


さて本題である。


上述したことと相反するかもしれぬが

私のパナマ生活はつまるところ、


やる気に満ち溢れている!




獅子は我が子を谷に突き落とす

というが、


私はまさに自分を突き落としているのである。


例えば、
日本であれほど勉強し書き溜めた

便利なノートや勉強道具を全て


日本に忘れてくるほど

やる気に満ち溢れているのである。



なんなら筆箱や筆記用具でさえ

持ってくることを忘れてくるほどの

努力をしている。



まさに谷で

紐なしバンジーを


おすなよ?なぁ、おすなよ?



と言うくらい自ら進んで飛んでいるのである。


そしてそれに気づいたのも

現地での語学研修が始まる当日の朝であった。



したがって今は眼鏡ケースに、

リュックに偶然入ってたボールペン一本をいれ


あたかも筆箱のように見せかけるというストイックさである。




(ちなみに何故か眼鏡とケースは全部で4つ持ってきていた。

なぜこんなに持ってきはのかは吾輩にもわからぬが、無論一つしか使っていない)



さらに

私の努力はそれだけにとどまらない。


例えば、
家族との会話をあえて拒絶し、すぐさま部屋に引きこもり



日本から持ってきた甘酸っぱい青春を題材にする小説を読み漁り

ホームシックにかかるように仕向けているのである。





このストイックさと言えば

かのイチローに匹敵する可能性がちょっとある。




人見知りが全力で発動し、

言葉の壁が思いの外高く、



登る気力を失った



というわけでは決してない!



さて

このように書くと

諸君の中に勘違いするものが出てくるだろう。



すなわち、


「おきくはただダメなやつなのではないか」


と。



私はそのような声に断固反対する。



日出ずる国、日本には

昔から



「能ある鷹は爪をかくす」という言葉がある



まさにそれなのである。



したがって私は


家族との会話に参加することなく、

黙々とご飯を食べ


余計なことを話さず爪を隠しているだけである。



そしてその隠し場所を忘れてしまっただけである。



下手したらこれも日本においてきた可能性もある。



しかし、

私は隙あらば会話を乗っ取ってやろうと



虎視眈々と狙っているのである。



ただ、虎視眈々と待っているあまり


少しうたた寝してしまい、



ホームステイが残すところ

あと一週間になってしまっただけである。



このほかに

私のストイックさを語る事例を挙げるとしたら

枚挙にいとまがない。




例えば

夜、家に帰ってご飯を食べ(1人で)お風呂はいって寝るまでに



「ごちそうさま」と「おやすみなさい」




しか言わなかったという

おそらく全世界のボランティア史上、



最短のコミュニケーションで乗り切った夜が

3回くらいある。





なぜならば

もはや
家族となったわれわれに

多くの言葉は必要がないからだ



自負している。



決して、怖いからではない!




だがしかし、

このようなわれわれの関係性に気づけず


軽率に私を心配してくる輩もいる。




「きくちさん。もう少しコミュニケーション取ったほうがいいですよ。

スペイン語の勉強にならないですよ」



とある人に言われた。

この冷静なるツッコミに


私はやや動揺したことを認めざるをえない。




だかしかし、


スペイン語とは、あくまで言葉である。


そして言葉とは、

コミュニケーションをとるための道具である。



したがって
コミュニケーションをとる必要性が感じられない時に、



スペイン語を話す理由など


流しそうめんでしらたきを流すくらい本末転倒かつ、

この例え並みによく分からないのである。




このように全てのものに反対し、
屁理屈をこねている私を


人は「低俗だ」と罵るであろう。



しかし



私が尊敬する、
フリースクールの創始者である


ニイルは



学生時代に以下の(ような感じの)言葉を残している。

「くだらぬ慣習や風習に反抗することを低俗だというのであれば

私は高らかに、陽気に宣言しよう。私は徹底的に低俗である」



よくぞ言ってくれたニイル。

まさしく、である。



陽気でいこうじゃないか。




加えて

かの哲学者、

デカルトの名言といえば


「我思う(疑う)ゆえに我あり」



であるが

このように
全てを疑い、


果たしてそれが真実なのか?


と疑い続け、
全てに正直になれないことが



この「きくち」という人間の

自分の存在意義なのである。


したがってここに、



陽気に全てにあーだこーだ

屁理屈を、疑いを持つ

史上最高にめんどくさい青年が誕生した。



そう、
自然の理、である。




このようにして、私は

自分の




不甲斐なさと愛しさと切なさとと心強さを



無理やり過去の偉人になぞらえて

価値のあるもに無理やり昇華しているのである




「いや、結局言い訳っしょ」




という声に私は耳を貸さない。


なぜならば、その通りだからである!




図星をつかれるのはなかなか心苦しいものである。



苦しむならいらない!


どっかの少女漫画のヒロインみたいなことを


24歳の眼鏡の引きこもり青年が



嘆いている絵面は

なかなかにきびしい。




もしこのようなことを
イチローや本田圭佑が言ったら、


「なるほど。。確かにそうかも、、」



と勝手に彼らの言葉を神格化し、勘違いし、

納得していく輩もいるだろう。


しかし、
この青年の言葉にどれほどの価値があるのだろうか。



あ、価値といえば



例えば

私が日本から玉ねぎ持ってきて

現地のスーパーに行ったとしたら



目の前にある玉ねぎと

僕が持ってきた玉ねぎ



味も見た目も一緒なのに


価値(値段)と名前が違うことに


今更ながら感慨深さを感じている。






「ロミオとジュリエット」(シェイクスピア)

の中で

ジュリエットは以下のように言う

「名前って何?

バラと呼んでいる花を別の名前にしてみても

美しい香りはそのまま」


玉ねぎだって一緒である。

玉ねぎを別の名前にしてみても




切ったら涙はでてくるのよ。


・・・

・・・・・・

諸君、うすうす感じているだろう。



紛れもなく今回の投稿もまた



なんの意味と意義を持たないことに。



紛れもなく、そう、



ただの戯言である。



ということで



いつか読み返した時に

恥ずかしくなるのは御免なので



ここで幕を引こう。



しかし、
無意味なものなどこの世に存在しない。


だからきっとこのパナマ生活も



いつか意味がわかる時がくるのであろう。

だから、、、あの、、、、がんばろうね。

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