乞食のいる世界は”美しい”

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あるいは全力のことばたち。

中南米を歩いていると当たり前に目にする光景がある。

 

道端に座り、あるいは寝そべり、コップのような容器を手に、

道ゆく人にお金を入れてもらう人がいるのだ。

 

いわゆる「乞食」の存在である。

 

 

ある者は家族を連れて、

またある者は片腕、足がない者もいる。

 

そんな当たり前の風景。

 

僕はそんな光景を美しいと思うのである。

 

今日はそんな話をしよう。

 

 

さて、

日本に乞食はいないよね。

 

正確にいうと

「いないこととされている」、か。

 

 

でも僕は思う。

「乞食のいる世界は美しい」と。

 

 

 

この話を始めるために

もうちょっとだけ僕が思う日本の社会の話を少し。

 

 

日本の社会には「自己責任」という言葉が強く根付いている。

そんな風に僕は思う。

 

 

受験に失敗しても、

就職できなくても

それは「自分の責任」であるという風潮が蔓延している。

 

だからこそ、

誰も弱者に手を差し伸べたりはしない。

 

だって、お前が悪いんだから。

って。

 

 

だから日本に乞食はいない。

 

存在できないのだ。

 

手をさしのばす人は少なく、

国は排除の体制をとってさえもいる。

 

 

もしくは隔離。

見えないふり。

 

 

一般的な社会と

彼らの社会をつなぐ橋はなく、完全に分断されている。

もっとも彼らのへの社会へ一方通行の道はあるけれど。

 

 

まぁ、要するに

日本の社会は乞食を排除するという方針で

見栄えという美しさを保とうとしているわけだ。

 

 

さて、一方で

中南米ではそれはもう当たり前に乞食がいるわけだ。

 

 

 

そばを通ると臭いがする。

周辺にはゴミが撒き散らされている。

ゴミ箱を漁り、人にお金を懇願する。

 

 

僕はその風景を「美しい」と感じるのだ。

 

 

 

中南米で乞食が存在できるのは

それが一般社会とリンクしているからと他ならない。

 

 

もっといえば、お金をあげる人がいる。

だから乞食が存在できる。

 

社会から排除されることもなくそこに居る。

 

もちろん、

乞食が存在する時点で社会の問題はあるにせよ、

日本のような排除対象にされているわけではないわけで。

 

実際には排除、あるいは救済の対象にはなって居るとは思うけれど。

 

 

 

社会的弱者を国が助けることはできなくても、

「側を歩く普通の人が助けている」という構図が僕の目には美しく映るのだ。

 

 

街の外観だけみれば乞食のいない街並みは綺麗であるけれど、

その内面の美しさがある。

 

僕はそういう風に思う。

 

 

僕を含めて多くの日本人は

道端に座る人へ支援の手を差し伸べることは少ない。

 

でも、その国に住む人は当たり前にお金をあげる。

それが僕らより経済的に低い地位にいても、だ。

 

 

日本にいるときに、

ホームレスを見たときに少しでも助けてあげよう

って思ったことは僕にはない。

 

彼らと僕の社会が分断されているから。

 

そこにいるのは自分の責任だって

僕には無関係な世界だからって

 

そう思ってしまうから。

 

 

何がどう正解なのかわからないけれど

それでも当たり前のように

 

「困ってる人を助ける」

 

そういう「当たり前」が当たり前に広がる世界を

 

僕は「美しい」と思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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