初心者のための教育哲学講座3ー考えるを考えるー
・本講座のコンセプト
この講座のコンセプトは、
みなさんの(教育)哲学に対する
イメージを、
「わからない」
から
「わかったようなわからないような」
というステップまで引き上げるという
エコ、低姿勢、低ハードル
です。
さらに付け加えるなら
言い訳満載です
です。
さて、このシリーズも第3回目となりました
哲学っぽいお話は今日でおしまいになり、
次からは教育哲学についてやろうかと思いますので、
哲学に興味ない方も、もうしばらくお付き合いくださいませ。
さて、今回は
考えるを考える
というテーマでやっていこうかと思うのですが、
要は、哲学のおもしろーいお話をご紹介して、
哲学の世界にちょっとでも触れてもらえればいいかと。。。
「考えるとはなにか」
前回までに書いたように、
哲学とは
本質を捉えることを目的とした行為である
まぁ、
月並みの表現で言えば「よく考える」ことなわけですね。
この「考える」という行為というのは
本当に不思議で、かつ面白いのです。
かの有名なパスカルは、
こんな名言を残しています。
「人間は考える葦(アシ)である」
人間は葦のように、
すぐ死んでしまう弱い存在である。
しかしながら、それでも考えることができるのだ。
という主張。
つまり、
人間の特徴であり、
人間が人間である上で求められるのは、
考えること
ということなわけです。
では、考えるとは一体何なのか。
今日はそれを「考えて」いきましょう。
考えるとは
まずは僕の個人的な見解から。
考えるためにはまずその対象が必要なわけですね。
要は「問い」です。
しかし、この問いには一般的に
二種類あると考えてられています。
一つは数学のような、
論理的思考、もしくは知識によって答えが出るもの
もう一つは、
愛とは、友情とはなにか?
と言ったような、知識だけでは出ない(ように思われる)もの。
ここまではまぁ、納得できますよね。
例えば、
日本に電柱が何本あるか
という問題があったとします。
この問題はどっちに分類されるでしょうか?
この問題は一見、途方も無い問題だし、
答えを出すのは不可能である、とされがちです。
みなさんも、
ちょっとだけ、考えてみてください。
日本の電柱の数は、
出せそうですか?
実はこの問題
実際に僕が大学生の頃、
出された問題でした。
その当時は手も足も出ず、
そんなのわかるわけないじゃん。
と言って、考えることを諦めました。
つまり、当時の僕にとっては、
この問題は2つ目の分類であって
脳みそじゃ解けないものだと考えたわけです。
ところが、
大学院生になって、
少しだけ、考える力がついた時、
この問題に再トライしたのです。
すると、
答えにたどり着きました。
そう。この問題は、
よく考えれば答えが出せるのです。
もちろんインターネットに答えは乗ってますが、
ぜひ、見る前にみなさんも考えてみてください。
(僕がどう考えたかは、最後のまとめにて。)
ま、こんな風に問題の種類なんて
実はどうでもよいのです。
答えが出るか、出ないかは
考えるという行為の前では
どうでもいいわけです
要は考えられたかどうか、
というところがポイントなわけです。
パスカルの言葉はこう続きます。
人間は空間的には地球に包まれている。
しかし、思考は宇宙をも包み込む。
人間の存在はちっぽけな点にすぎませんが、
思考は無限に広がり、全てを包むという、
パスカルの思考への想いが見て取れます。
そう考えると、
思考というのは無限の可能性を秘めているということになり、
愛とか、時間とは、と言ったような、
到底答えが出なさそうな問いにも立ち向かえそうな気がして来ます。
そう、思考とは
世の中に数多く存在する問題へ抵抗する
一種の武器のようなものなのです。
ここまでは
僕は
「考える」に対してこのように考えている
という話でした。
「哲学者はどこまで考えるか?」
さて、僕の個人的な話はさておいて、
では哲学者たちはどうやって物事を考えているのか、
という点に着目していきましょう。
ここからは僕のリスペクトする
バートランド・ラッセルの著作「哲学入門」から
その世界を覗いてみましょう。
ちなみにこの話をすると
多くに人はイライラします。
本当にそこに「ある」のか?
まず
皆さんの目の前には何がありますか?
恐らく携帯、もしくはパソコンですね。
でもそれらって本当に「在る」のでしょうか?
もしかしたらそれって
無いのかもしれません。
こういうとこまで考えちゃうのが哲学者たち。
ラッセルの理論を参考にこの問いを考えてみましょう。
机は「ない」?
皆さん、机って知ってますか?
そう。勉強したり、
物置と化すその机。
みんなの身の回りにあるでしょう。
でもその机、
本当に存在してますか?
「いや、あるよ」
と、当たり前に人は言うでしょう
・・・そこに疑いが生まれます。
なぜ、人は机があると言えるのか。
見えているから?
ははーん。
じゃあその見えている机、
電気を消して、暗闇になった時はどうなんですか?
そこにまだあるのか?
無くなるのだろうか?
または、こんな質問。
あなたが普段見ている机の色と
陽が当たって、色が変わった机は
どっちが本物の机の色でしょうか?
こうやって、ちょっと考えだけで、
いろんなことが見えてくる、
あるいは見えなくなってくる。
少なくとも、テーブルの色というのは
テーブルに属しているのではなく、
それを捉える状況や、見る人に依存している、
ということですね。
つまり、テーブルは自身の色を持たない。
ということです。
そう、テーブルには色がないんです!
(イラッとポイント1)
次に形。
これも同じように、
上から見た時、横から見た時で違いますよね?
くるくると部屋の中を歩き回って
テーブルを見続けると、
絶えずテーブルの形は変化する。
どれが本当の机の形なのでしょうか?
真下からみた机だって、本当の机の姿である可能性があるわけで、
普段椅子に座って見ている机の姿が偽物である可能性もあるわけです。
つまり、これも色と同じように、
机はそれ自体の形を持たない、
という結論にたどり着けます。
(イラっとポイント2)
どうですか?
この段階で、
あなたの目の前の机は
色を持たず、形を持たないもの、
となってきました。
机の存在、怪しくなって来ましたか?
じゃあ、最後、
机は本当に在るのか?
色がなくても、形がなくても、
触れるから少なくとも存在している!とは言えますよね。
でも、
どこに、どこで、どのくらいの強さで
触れるかによって返ってくる感覚は異なる。
どれが本当の机の硬さなのだろうか。
このような議論をまとめると、
見る、触るというのは全て個々人の感覚が反応しているだけで、
それが「本当に存在している」机かどうかの判断はつかないわけです。
触ったり匂いを嗅いだりすると、
何かしらの感覚は必ず返ってくる。
でもそれは本当に存在するであろう机から送られてくる、
情報のようなもので、
「本当の」机かどうかはわからない。
人間は単に、
感覚から得られる情報から推測して、
机はこのようなものとして存在している
と推論しているにすぎない
のです。
机が存在しているとしても、
それは直接的に経験、知ることはできないのだ。
あくまで推論の枠を出ない。
感覚はある、しかし、本当の姿は見えない。
したがって、
本当の机が今目の前にあるかどうかは
怪しい。
・・・・
どうでしょうか?
こういうことを考えて
ニヤニヤしているのが哲学者です。
多分。
ちなみに「存在」を考える上で外せないのは
ハイデッカーという哲学者。
有名なのは「存在と時間」という本。
僕は一ミリもわからなかったですけど、
興味があればぜひ。
さて、
ここまで考えて見て、
どうでしょうか。
屁理屈ばっかで
イライラする?
よくわかんない?
そんなこといちいち考えてられない?
そんなあなたへ朗報です。
考えない葦
パスカルが人間は考える葦である、
というけれど、
でも考えない葦だって存在してもいいはずだ。
そんなことを
日本の哲学者である森本哲郎は言っています。
考えるという作業はパスカルのような賢人には楽しいかもしれない。
しかし、私のような凡人には苦しいだけだ。
と。
なんなら
ぼーっと何も考えずに暮らしたい、とまで書いてます。
しかし、
次の瞬間、
いや、何も考えない人生など、本当に楽しいのだろうか。
と考えている自分に気づくわけです。
このように
考えたくない自分
と
考えてしまう自分。
その間に揺れるのが人間であるとして、
「人間は考える葦ではなく、
風にそよぐ葦である」
と、
とても素敵な言葉を残してくれています。
感動。
毎日を疑え。
風にそよぐ葦の話でなんとなくすっきりしたみなさんを
もう一度ねちっこい哲学ワールドに拉致しましょう。
あんだけ
机があるとか、ないとか話をして、
一体何の意味があるんだ。
と多くの人は思うでしょう。
しかし、ラッセルには真逆で、
なぜ、誰もそこに疑問を抱かないのだ。
と考えます。
彼曰く、
多くの人は、薄い氷の張った湖を
何の躊躇もなく、てくてく歩いていく。
いつ氷が割れるかもわからないのに、
下を見る者などいない。
と。
どういうことか。
わかりやすい例を出しましょう。
多くの人は
寝るときに恐怖に襲われて寝る人はいないでしょう
誰もが明日が来ることを、日が昇ることを疑わず、
眠りにつくからです。
でもなぜ、明日も陽がのぼると私たちは
思い込んでいるのだろうか。
2つ、理由があります。
1つは、そういう法則があるから、
つまり科学が証明しているということ。
つまり、
地球の自転・公転のこと、
太陽との位置関係、
ケプラーの法則にみる惑星の移動。
その全てが今や証明されているわけで、
あと何時間後に地球はここを通ると未来が予測されている。
だからこそ、人は安心して眠りにつけると。
明日も陽が昇ると信じて疑わずに。
でも違うのです。
その全ては、ハリボテの恐れがある。
つまり、実際は
地球の動きに、法則を当てはめているだけ。
わかりやすくいうと
法則があるから、そこに地球が当てはまって回っているわけではなく、
地球が回っていたからこそ、法則を当てはめたわけです。
つまり、
明日がその法則が崩れる可能性だって十分にあるわけです
経験則から
いやいや、
とは言いつつもだよ、おきくさん。
昨日は大丈夫だった。おとといも。そして。今日も。
だから明日も陽が昇るだよ。
という考え。
要は経験が未来を作る。
という考え方です。
でもこれは、
全く根拠がないわけですよね。
わかりやすくいうと、
昨日交通事故に遭わなかったから
今日も逢わない
と考える人はまずいません。
それは偶発的なコトですから。
今日が無事だったからと言って、
明日事故に巻き込まれることもある。
と人は考えます。
にも関わらず、
陽が昨日も登ったから、今日も登るはずだ
と
人はなにも疑わず考えるのです。
交通事故は疑うのに、
日の出は疑わない。
この違いは一体何なのでしょうか。
このように、
自分たちの生活の土台が
かなり不安定な薄いガラスのようなものなのに、
人は気付かず歩いてしまう。
ここにラッセルは警報を鳴らすわけですね。
その土台、
つまり
当たり前を疑おうよ。
問おう。
僕たちが生きているこの世界を。
そのために、哲学が役に立つ。
哲学とは問いを生み出すものだから。
安心して今日、そして明日を生きるために。
ちゃんちゃん。
まとめ
えーー
ということで、
いかがだったでしょうか。
哲学のお話。
僕が衝撃を受けて、感動し、
哲学にはまったお話でした。
ちょっとでも哲学を学んでいる方は
いろいろと言いたいことがあるでしょう。
でもこれは「初心者のための」
なので、
温かい目で見てください
(言い訳)
さて、次回からは多分、
教育哲学のお話をしていこうかな、
と思います。
たのしみーー!
電柱の数。
さて、電柱の話ですが
いいんですか?
自分で答え出さなくていいんですか?
スッキリしなくていいんですか?
インターネットで答えを見ちゃったり、
僕の解答見てもいいんですか?
じゃあ、解答編いきますよ。
僕はこう考えた。
電柱とはそもそもなんだろう。
たしか、電線の経由地みたいに、
家に電気を届けるものだよな。
経由地ということは、
一つの家に一本というわけじゃなさそうだ。
この家から、あの家までの距離を電柱が繋いでいく。
つまり、
家の数よりかは電柱の数は多いはずだ。
じゃあ、日本に家はどのくらいあるのだろうか・・・・
人口が確か。。。
。。。。
やっぱり答え書くのやーめた。
ま、こんな感じで考えていくと、
行けそうな気がしますよね。
もちろんいろんなアプローチがあります。
上のは人口からのアプローチ。
下は面積からのアプローチ。
電柱の間隔ってどんくらいだろうか。
電線を結ぶんだから、極端に長かったり、短いわけじゃないよな。
ある程度の等間隔で並んでるはずだ。
なんとなーくだけど、
25メートルプールくらいか?
いや、もうちょい、
50メートルくらいか?
間をとって35メートルに一本くらいか。
でもわかりやすく30mにしよう。
ということは、
一辺が30mの正方形があったらそこの四角に一本つずつ。
合計4本あるはずだ。
つまり面積が900平方mに4本
ということは単純にそこに90m分の3本足して、
約1平方キロmに7本。
んーーいや、
キリよく10本にしよう。
計算しやすいし。
あとは日本の面積を求めれば。。。
日本の面積割る10で出るはずだ。。。
といってもどうやって求めよう。。
あれ、
日本ってLの反対みたいな形してるな。
てっことは、
東京から山口まで車で100キロで走ったとして。。。
何時間くらいで。。
同じように
青森まで。。。
僕はこうやって、いろんなアプローチから考えてって、
最終的にそこまで誤差がない数字にたどり着きました。
こんなアバウトでも答えがでる。
あってなくても、答えは出せる。
大事なのは
合っているか
ではなく
考えたか
です
どうか調べないで、
自分の頭で
考えてみてください。
私たちは風にそよぐ葦なのだから。
あ、
前回も紹介したけど、
ラッセルの本はこちら。
果たして机は
「ある」のか
「ない」のか
その答えは自分で見てくださいな。
コメント
小学生の中頃、大事な大事なものをなくした。そのころ鬱なんて言葉は知らなかったけれど、かなり長い間鬱鬱としていた。 ない ない ない。頭をグルグルその言葉がまわっていた。あるときハッと気づいた。なくなったのじゃなく、自分の手元にないだけで、それはどこかに在る。そう思ったら気持ちが軽くなった。それ以来ものをなくすと、自分の手元にないだけでなくなってはいないと思うことがなぐさめになっている。
もうひとつ。これは中学生だったかな。色は存在するのか?真っ暗闇では色はみえない。光のあるところでしか色はみえない。じゃあその物質には色はないということになるのか?光があっても光がなくても、
その物質は色をもっているのか、そもそも色は認識されなかったら色ではないのか?大真面目に悩んでいた。考えてみれば変な子。
あははは
すごい変な子!!
でも気持ちはすごくわかります。
所有って一体なんなんでしょうね。
色がある。
こんな当たり前のことさえ
誰もわからない世界にどうして僕らは生きていけるのだろうか。