僕はよく本屋に行く。正確にいえば流れ着く。
本屋に行こうと出かけることはほとんどないのに、気付いたら本屋にいる。
旅行に出て知らないと土地を歩いてる時でさえ、本屋で立ち読みをしてしまう。
知ってる表紙を見れば内容を思い出し、少し失恋に似た切なさを感じ、
興味を惹かれる本があれば手に取り、インクの匂いとともに、パラパラとめくる。
要するに本が好きなのだ。
そんなこんなで先日も外出先で本屋に吸い込まれた。
チェーン店ではなく、いわゆる”セレクトショップ”で
なかなか目にする機会のないタイトルが並んでいた。
・SNSで病む女子の心情を綴った本であったり、
・何かとマウントを取ってくる人への対処法とか
・「OOちゃんはかわいいからいいよね。私はブスだからさ・・・」
とか言い出しちゃう人へかける言葉集だったり。
この選書をした人と一度お話ししてみたいと思ったが、
なんか病みそうだからやっぱりやめた。
それはそれとして
本屋には当たり前にエッセイ集が並んでいる。
エッセイというのはつまり、
作者の個人的な体験談だったり、思想、日々の呟きを綴ったものであり、
極端な話日記のようなものだ。
テーマもなければ学術的な内容もない。
ふわふわとした内容が多いにもかかわらず、一定の売り上げを誇る。
僕は毎回そのエッセイをみて思う。
「僕にもできるんじゃないか」
学術書やビジネス書ならまだしも、エッセイくらいなら。。
と思ってしまう。
だけど結論から言うと、
「僕にもできる」は「大抵できない」のだ。
ちょっとしたエッセイくらい…
この言葉の裏側には想像力の欠如がある、と僕は考えている。
自分でテーマもなく、自由なふわふわとした日常を書き留めるとしても、
3、4つのエピソードでネタが切れてしまう。
誰でも平等に与えられている一日の中からキラリと光るモノに目を凝らす。
この作業があって始めて日々を綴ることができるのだ。
本だけでなく、世界を見渡せば、
簡単そうにできることがたくさんある。
自分にもできるんじゃないかと思えることがある。
やっている人がいとも簡単そうにやっているし、
その成果物は何食わぬ顔で目の前に差し出される。
難しいことを簡単そうに、さも当たり前に行うということが
どれほど難しいか、想像しなくてはならない。
僕にもできそうだなと思うことは悪いことではないけれど、
その裏側にも目を凝らさないといけないのだ。
むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、
ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、
まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに
(井上ひさし)
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