久々に思うことがあったので、
書きまくったら長くなったのでシリーズにした。
「読むということ」
「解釈するということ」
「沈黙するということ」
お楽しみくださいませ。
読みと解釈、そして ー沈黙ー
前回
前々回
と少しだけ言葉と解釈について書いてきたので、
調子に乗ってもう一つ、書くことにする。
今度は言葉と解釈をもう少し、哲学的な視点から見ていこう。
まずはこの言葉を紹介したい。
どんな人間の中にも、
一生のあいだに費い果たすことができないほどの多量な沈黙が蔵されている
ーマックス・ピカート(沈黙の世界)
言い得て妙とはこのことだと思う。
人は沈黙を拒む。
得体の知れない沈黙に恐怖する。
例えば森本哲郎は、
僕のバイブルとなった「言葉へのたび」の中で、
このように語る。
何人かの友人が集まって雑談をしている時、
とつぜん会話が途切れて、一瞬沈黙が支配するようなことがあります。
そんな時、みんな何となく間が悪いように感じ、慌てて話の糸口を探そうとする
と。
なぜこのようなことが起こりうるのか。
彼はこう続ける。
話をしている時の方が楽しいから?
いいえ、違います。沈黙が怖いからです。
沈黙は外に向いていた目を内に向けさせるからです。
そして自分という存在をはっきりと自覚させるからです。
彼のこの論がどのような展開を見せて、
どこへ終着していくかは実際に読んでもらうことにして、
ここからは、
僕なりの解釈を書いていこう。
さて、
「沈黙」は自分という存在を、
真っ暗闇な沈黙の中で浮き彫りにしてしまうのである。
つまりそう、
ちょうど宇宙空間のど真ん中に放り出された気分に違いない。
だからこそ、人は話を続けたがる。言葉を紡ぎたがる。
さて、ここで面白い話をしよう。
「解釈学」という考え方がある。
平たく言えば、
「人と人はどうやって繋がるのか」ということ。
一般的には、
人と人は、言葉を媒介につながっていくと認知されている。
日々の生活の中で、言葉という媒介によって関係が強固となっていく。
しかし、解釈学の立場は少し異なる。
解釈学的な知見から言えば、
言葉を発すれば発するほど、人との関係は希薄になるという。
どういうことか。
それは、
言葉というのはあまりにも脆く、不安定で、そして共感性がないからなのだ。
例えば、あなたが風邪をひいたとしよう。
そして友達に報告したとする。
するとその友達は
「大変だね」「大丈夫?」「つらいよね」
と様々な言葉をかけてくれる。
しかし、果たしてその言葉にどれほどの意味があるのか。
人は人と「共感する」ことで安心感やつながりを感じると言われるが、
言葉によって人と人は本当に「共感できる」のか、
つまり「繋がれる」のか。
否、
人は言葉を媒介にしていたら「本当の意味で」繋がれないというのが
解釈学の基本的な立ち位置だ。
なぜか。
例えば40度の熱を出した。
その苦しみは他でもない自分だけの「苦しみ」であり、
他人には絶対に伝えられない。
同様に、
友人が40度の熱を出していたとしても、
それは友人の「苦しみ」であり、自分の「苦しみ」ではない。
つまり、
言葉はそれぞれに個々の属性に依拠しているからこそ、
共感性はない。
自分の「美味しい」と相手の「美味しい」は別物であり、
その溝を埋めることはできない。
むしろ、説明すればするほど、
全ての言葉の「解釈」が異なるためその溝は広がっていく。
だからこそ、
人と人は言葉を媒介にしている限り、分かり合えないのだ。
たとえ、そのような言葉で安心したり、共感できたとしても、
「表面上の共感」の枠を逸脱することはできない。
それでも、人と人はわかり合おうとするし、繋がろうとする。
それが人間だからだ。
ではどうやって?
どのようにして人と人は繋がるのだろうか。
解釈学が指し示す一つの道はこれだ。
そう。
ー沈黙ー
言葉を捨てて、沈黙に耳を傾ける。
これこそが人と人が繋がれる唯一の手段なのである。
具体的に見ていこう。
例えば彼氏彼女、家族、友人でもいい。
ふとした時に同じ行動をした時、
同じ考えを持っていた時、
コーヒーのみたいなって思った時にコーヒーを用意してくれた時
その瞬間、つながりを感じないだろうか。
「目を見ればわかる」
「目は口ほどに物を言う」
という言葉があるように、
見つめあうだけで安心したりする。
この瞬間に言葉は必要ない。
むしろ、言葉がお互いのつながりを阻害することさえある。
人と繋がりたいのであれば、言葉を捨てよ。
これが解釈学が僕らに示唆する一つの道である。
さて、筆をさらに続けよう。
この考え方の最終的な行き先は、
自己との対話である。
先ほどまで例に挙げた友人や、恋人を全て自己に置き換えてみる。
つまり、
「自分」とは、自分と一番距離の近い他者であるということだ。
自分との対話にだって言葉は必要ない。
なぜなら言葉がつながりを阻害するから。
例えば、やりたいことがあった時、
人は知らず知らずに
「言葉」を言い訳に使う。
それはすなわち、
自分をごまかす、
つまり、自分が本当にやりたいこととのズレを生じさせるのだ。
「手を胸に当てて考えてみる」
という言葉が比喩するように、
言葉を捨てて、沈黙になって初めて、
自分と繋がれるのである。
さて、話を冒頭に戻そう。
マックス・ピカートが言うように、
「人は使い切れないほどの沈黙を持っている」わけだが、
実際にそれを人は気づかない。
沈黙が持つ代え難い価値に人は気づかない。
むしろ、避けるものとさえ感じてしまっている。
だが人は沈黙なしに真の意味で人とは繋がれないし、自分とも繋がれない。
極論を言えば、
表面上の人生を生きることになってしまう。
だからしばし、沈黙に耳を傾ける必要があるのだ。
しかし
だからといって完全に言葉を捨てるのではない。
最後に再びピカートの言葉を紹介する。
沈黙は言葉なくても存在し得る。けれど沈黙無くして言葉は存在し得ない。
もし言葉に沈黙の背景がなければ言葉は深みを失ってしまう
沈黙という深い尺度がってあって初めて、
言葉に輪郭が生まれる。
沈黙がない、表面上の自分からは表面的な言葉しか生まれない。
沈黙の奥深さを知り、そこに身を置くからこそ、
言葉にも深みが出るということなのだ。
「読む」ということ
「解釈する」ということ
そして最後に、
「沈黙する」ということ
を紹介してきました。
すべてにおいて、僕の個人的な見解ですので、
多少の間違いがあるかもしれません。
それはそれとして、「解釈の違い」として許してください。
これにて、このシリーズはおしまい。
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