「読む」ということ 〜井伏鱒二 山椒魚から見えるもの〜

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あるいは全力のことばたち。

 

久々に思うことがあったので、

書きまくったら長くなったのでシリーズにした。

 

「読むということ」

 

「解釈するということ」

 

「沈黙するということ」

 

 

 

お楽しみくださいませ。

 


 

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読むということ

 

スペイン語の勉強をしていて思うことがある。

 

 


それはいつものように、

スペイン語で書かれた文章を読んでいた時のことだった。

 

 

人並みに活字が好きな僕が

「文字を読む」という行為に対して全くの好奇心を持っていなかったのだ。

 

もちろんそれは「言語が違うから」という

月並みな言葉で片付けられてしまうことである。


でもなぜ言語が変わるだけで

こんなにも人は文章を読む楽しさを忘れてしまうのだろうか。

 

「読む」という行為は普遍的であり、

言語に依存するものではないのではないか。


そんな時、ふと思い出した文章があった。


それは高校生の時に出会った井伏鱒二の「山椒魚」だった。

 

 

おそらく僕が活字の面白さに気づいたのは、

この作品と出会ったからであると言ったらちょっと過言である。

でも影響は受けていることはここに告白していく。

 

中でも山椒魚が自分の巣穴に潜み、

外に見える世界を皮肉っている描写が印象的である。


例えば山椒魚は

隊列を組んで一方方向に進むエビを嘲笑さえするのである。


しかし、最も皮肉が効いているのは、

山椒魚自身が巣穴から抜け出せなくなってしまうことである。


頭が出口に引っかかってしまい、出れなくなってしまうのだった。


ここだ。

 

この文章こそが僕の疑問を鮮やかに解決してくれるとともに、
僕の記憶に残り続ける作品になった所以である。

 

なぜ、つっかえたのが「頭」だったのか。

お尻でも肩でも腕でもなく、

引っかかったのは他の部位より小さい「頭」である。


字面だけ読めばなんてことのない一文ではあるが、

一方でここに全てが集約しているといったらこれも少し過言。

 

冗談はさておいて本質に迫ろう。

 

つまり、

山椒魚を巣穴から出れなくしたのは「思考」なのである。

 

外の批判を皮肉り、批判ばかりしていたその思考が、

いざ外に出る時に引っかかり彼を巣穴へと押し込める。

 

だから、お尻でも肩でも腕でもなく、「頭」が引っかかってしまったのだ。


もちろんこんな説明は作品の中には描かれてないし、
初めて読んだ当時から現在にかけての僕の解釈である。

 

文章の解釈の云々は次の機会にまわすとして、
要はここに「読む」楽しさがあると僕は考える。

 

つまり、読むというのは文字通り字面を追うのではなく

そこから「汲み取れる意味」を読んでいくということなのではないか。

 

少なくとも僕はそう思っている。

だからこそ僕は読むことが好きなのだ。

 

しかし、冒頭のスペイン語の話では、僕は字面しか追っていなかったのだ。


その文字が意味するものだけを追い続けている。

 

辞書が指し示す言葉の意味だけが

その文字の存在意義として鎮座している。

 

しかし、「読む」というのは、その文字が「意味」するものを読むのではなく、
その文字が「示唆」するものを読んでいく。


そういうことなのだ。

 


僕はそう考える。

ちなみに山椒魚はマジで面白いから読んでみて欲しい。

 

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