解釈するということ

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あるいは全力のことばたち。

 

久々に思うことがあったので、

書きまくったら長くなったのでシリーズにした。

 

「読むということ」

 

「解釈するということ」

 

「沈黙するということ」

 

 

お楽しみくださいませ。


 

 

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「解釈する」ということ


井伏鱒二の山椒魚を題材に、

「読む」ということを徒然と書いてみたところ、
思いのほか反響があったような気がするので、

勝手に続きを書く。

 

前回

「読む」ということ 〜井伏鱒二 山椒魚から見えるもの〜
 久々に思うことがあったので、書きまくったら長くなったのでシリーズにした。 「読むということ」 「解釈するということ」 「沈黙するということ」   お楽しみくださいませ。  読むということ スペイン語...

 

山椒魚の中で最も印象に残っているのは、

「頭が」引っかかってしまうことであるということは前回お伝えした。

 

 

しかし同時にあくまで「僕の解釈」に過ぎないということもお伝えした。


では文字、あるいは言葉の「解釈」とはなんなのだろうか。

 

解釈を論じる時、必ずしもぶつかる壁がある。
それは「作者の意図」である。

 

例えば数年前に、

大学のセンター試験で「ムーミン」を題材にした問題が出されたことがある。


しかし、その問題が作者の意図や設定とズレていたという指摘があり、

しばし騒がれたことは記憶に新しい。

 

ま、

ムーミン谷が北欧のどこをモチーフにしているかの議論は置いといて、

 

解釈と意図の議論に移ろうと思う。


日本のいわゆる国語教育では、
登場人物のセリフや立ち振る舞いからその心情を答えるという問題が散見され、

回答が作者の意図(とされている)ものと異なっていたら

ペケを頂戴することになる。

 


僕はこのペケに懐疑的である。

もちろんこれは、読解能力や語彙に関連する議論ではなく

 

そもそも、文章の解釈を


「作者の意図と一致させる必要性がどこにあるのだろうか」

 

という議論だと僕は個人的に理解している。


再び、山椒魚を例に見てみよう。

 

 

僕は山椒魚の「頭が突っかかって外に出れなくなってしまった」

 

という描写を

 

「思考」を比喩的に表現していると解釈し

 

「思考が外に出ることを阻害している」と読んだ。

 

でも実は井伏氏は、

 

「偶然『頭』が引っかかった」と書いただけかもしれないし、

 

あるいは

「その山椒魚は痩せていて頭が他の部位より大きかった」


だけかもしれない

 

仮にそうだとしたら、

僕の「『思考』が邪魔をして外に出れない」という解釈は間違っており、

ありがたくペケを頂戴することになる。

 

でもこれでいいのか。

 

個人的に

「解釈」とは、
個々に委ねられた文章への態度であり、権利である。

 

文字が「示唆」するものはなにか、それを自分の物差しで解釈していくのが
読むということなのだ。


例えば


「焼け野原に赤とんぼが一匹止まっていた」


という文章があったとして、「作者の意図を答えよ」と言われたらどうするか。

 

僕は、


焼け野原と赤トンボから、


・少しもの悲しさを覚えて、戦争といったものを連想する。

 

あるいは、

 

・戦火に巻き込まれながらも、

生き延びようとするトンボの力強さを感じることもできるし、

 

はたまた、

 

・戦後に生まれた青年の、父とトンボを捕まえに行った遠い淡い思い出

を彷彿とさせる。

 

 

こんな短い文章からでさえ、多様の解釈が生まれる。

そしてこれらに何一つ間違いはないと僕は思っている。

 


繰り返しになるが、
「作者の意図と異なる解釈は不正解」ということがおかしいのである。

 

話は飛ぶが、

「差異は不正解」

 

つまり、

人と同じことをしないといけない

という日本に蔓延する考え方は

 

こういうところからもきているのではないかと僕は思っている。

 


第一、

作者は自分の意図しているものと、読者の解釈が異なっていた場合

不正解だ!と怒るのだろうか。


あるいは怒るかもしれないが、

多くの場合、

そういう「読み」もあるのか、という新たな発見が生じるか、

もしくは、

 

そう読み取らせてしまうような文章を書いてしまったという非力さに目がいく

のではないか

 

と僕は思う。


要は解釈の相違は、

往往にして肯定的な結論に落ち着くのではないか。

 


「作者の意図を踏みにじる」
という行為は言語道断ではあるが、


それは必ずしも

「解釈を一致させなければならない」ということではない。


作者は作者でありながらも、一人の解釈者なのである。

そして僕らもまた同じように。

 


「解釈のズレ」が示唆することはなにか、なぜズレているのか、

そういう点に着目して新たな視点でまた読む。
そすすることでまた新たな解釈が生まれる。

 

この繰り返しが、「真の解釈」に近づく唯一の道なのではないかと

僕はそう思うわけです。

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