新型コロナウイルスと人権

スポンサーリンク
あるいは全力のことばたち。

 

世界中で猛威を奮っている新型コロナウイルス (Covid-19)。
この未曾有のパンデミックに対して私たちはどう向き合うのか。

つい先日、フランスに留学していた知人と新型コロナウイルスについて
議論する機会があった。

この記事はその時の議論の内容を簡単にまとめたものである。

この議論の論点は

新型コロナウイルスによって
国民が持つ基本的人権を国家に譲渡してしまう危険性について

である。

このようなテーマの議論は日本では滅多にみることができない。
なぜならば日本では圧倒的にコロナウイルスに対する情報は少なく、
そしてその理解が足りていないからであると推測できる。

もちろんそれは、

「OO県で何人の感染者が出て、死者がどれほど増加した」

といった表面的な話ではなく、
コロナウイルスによって今何が起きているかという理解である

私たち日本人はこのコロナによって起きている社会の変化を
捉える視座をまだ持てていない。

日本の情報番組や新聞で報道されるコロナウイルスに関する情報は
あまりにも浅い。

他方、ヨーロッパ諸国ではコロナウイルスをめぐる論争は
2月の下旬から盛んに行われており(1)
その論点は助成金や休業要請といった話ではなく、
人が持つ人権にまで及んでいる。

(1):イタリアの学者は2月下旬には
    コロナウイルスと人権を主題にした議論を展開している

 

Covid-19緊急事態に関する4人のイタリアの哲学者のコメント - 東京カレッジ
「コロナウイルス」は、2020年の初めから世界の話題をさらっているテーマです。この数週間の間に、ウイルスは中国

 

また、
日本のメディアにも同様の記事がUPされてはいるが
あくまでヨーロッパ諸国の議論を引用、なぞるだけにとどまっている
しかもこれが発表されたのは4月16日のことだ。

東浩紀「緊急事態に人間を家畜のように監視する生権力が各国でまかり通っている」 | AERA dot. (アエラドット)
批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

このレベルでヨーロッパ諸国と日本では
新型コロナウイルスから生じる問題意識の差が見て取れる。

そこで、今回は知人との議論で見えた
コロナウイルス媒介にしたいくつかの危険性を紹介したい。

 

注:あくまでこれは個人的に行った議論のまとめであり、
僕自身がこの議論の思想を持っているわけではない。
純粋に一つの視座として紹介しているだけである。
また、細かい出典等は省略している。

この点にご留意して読んでいただけたら幸いである

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

コロナウイルスと非常事態宣言

4月7日
安倍晋三首相は
改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく初の「緊急事態宣言」を発令した。

今年1月には国内で感染者が確認されており、
その3ヶ月後のことである。
この初速の遅れは国内外からも批判の対象となっている。

また、その期限であった5月6日を待たずして
5月4日、同月31日までの延長を発表した。

延長期間やそのタイミング、根拠などに対し様々な批判が行われているが、
その是非についてはひとまず先送りにし、
ここでは「常事態宣言」が私たちにどのような影響を与えているかについて
言及していく。

非常事態宣言が私たちに要求するもの

これらに関しては、テレビで毎日のように報道されているため省略するが、
大まかに言えば

・移動の自粛
・集会の自粛(他者との接触)
・イベント等の自粛
・施設等の閉鎖
・休業要請

といったところである。

これらは全てヨーロッパ諸国のように
強制力を伴う「制限」ではなく、
各々の自己判断で行う「自粛」という言葉で語られているが、
内実は同義であると言っても差し支えないだろう。

実際、
フランスでも不要不急の外出を行う人もいれば(知人曰く)
一方で日本でも店名を公表し、「休業指示」を出すという方針も取られている。
(一種の魔女狩りのような同調圧力が働き、
強制力を伴っていると言っても過言ではない状況が続いている)


したがって、両者の境目は限りなく小さくなり、
ただそれを表現する言葉の問題に近いと言えよう。

(もっとも法的な問題や、国の助成金などの施策など差異があることは承知している)

それはともかくとして、
もはや日本と欧米は同様な状況にある。
にもかかわらず、両者に決定的な違いがある。
それは情報の質と、そして国民の理解度である。

非常事態宣言と人権

ヨーロッパ諸国の学者間では、
新聞などを媒介に
「非常事態宣言」と「人権」に関しての論争を展開している。

(「非常事態宣言」という言葉は日本特有の表現であり、
諸外国とは異なるが、いわゆる「ロックダウン」という認識で良い)

この国家の施策と人権がどのような関係性にあるかを明らかにすることが
この記事の目的である。

まず、
大前提として私たち国民は人権を有していると言うのは周知の事実である。
しかし、この新型コロナウイルスをきっかけにその人権を
知らずのうちに剥奪されているのではないか。

代表的なところで言えば「自由権」である。
私たちは集会の自由を持ち、
言論・宗教の自由を持つ。

しかし、
非常事態宣言により、気づかずうちにその権利の行使ができない状況にある。

日本では「三密」という言葉が日々使われているが、
それは紛れもなく集会の自由に相反するものである。
また、同様に移動の自由も制限されている。

フランスでは、(個人的な)外出の際には許可証の申請が必要であり、
目的や移動先等の記載が義務付けられる。
また、ドローンによって街が監視され、
警察により注意勧告等が行われている。

諸外国も同様な状況である。

すなわち国家の監視下に置かれているのである。

日本でも新型コロナウイルスの陽性と診断された場合、
その直近の行動調査が要求される(拒否も可能)。

通常の日常では起こり得なかったことが起きている。


集会が禁止され、
移動が制限され、
誰といつどこで会ったかが調べられる。

これが日常的に、
そしてだれも不思議に思うことなく起きているのである。

日常の水面下ではこのような危険性が存在している。

とは言え、現在は日常ではなく、
非日常、いわゆる「非常事態」なのだから
これが容認されているだけであり問題はないと考えることはできる。

しかしながら問題は
「非日常」が「日常化」する可能性があるということである。

非常事態と日常

 

非常事態宣言下において、基本的人権が侵害されている
(しかも無意識的に)ということは紛れもない事実である。

しかしながら、
あくまで日常と切り離されていた非日常であり、
また自らの生命を守るための防衛手段(安全のため)であるとも考えることはできる。

しかし、だからと言って「安全」という言葉の上に
のうのうと胡座を書くことはできない。

なぜならば非常事態と日常化する危険性
両者の線引きが曖昧化する可能性があるからである。

「新型コロナウイルスの終息に2年かかる」
という予測が米ミネソタ大学「感染症研究政策センター」から発表されたのは
記憶に新しい。

この短くない間、
私たちは常に非日常をでの生活を余儀なくされ、
その結果順応してしまう恐れがある。
つまり、非日常が日常化する可能性もある。

非常事態宣言による非日常が始まり1ヶ月経ったが
この生活に順応してきている人も少なくないだろう。
また、終息までは2年も要さないかもしれないが、
1、2ヶ月という短期間で終息すると予想している人はいない。

ま、それはさておき、
このような非日常に順応するということ、

それが意味することは国民主権(人権)の剥奪なのだ。

その一例として挙げられるのは、
今回の非常事態宣言の延期に見られるように
「部分的な緩和」である。

安倍首相によれば、
非常事態宣言の期間中であっても
感染者数や状況によっては各都道府県単位での自粛の緩和が明示されている。
しかしそれはすなわち、
その状況と判断された場合再び対象になるということを意味する。

これが意味するものは
その判断の決定権は政府にあり、常に主権は政府に掌握されていることである

国民主権である日本で、このような主権国家が
水面下で日常化する可能性がある。

安全と人権とコロナウイルス

これまでコロナウイルスをきっかけとした
国家による人権の剥奪の危険性を論じてきたが、
これらの議論は全て

「安全」のため

という一言で受容されうる。

だた、私はこの「安全」という言葉を鵜呑みすることにも
危険性を感じている。

安全のために、身を守るために非常事態宣言は必要であり、
様々な規制が必要であるということは当然であり、理解される。

国家の指示に従い、様々な制約を受けることにより、
私たちの生命の安全が担保される。

このような関係性で今日の日本の社会は成り立っている。
それはある程度致し方ない関係性である。
しかしながら、「安全のため」という言葉は同時に
思考停止を引き起こす引き金になりうるとも考えられる。

安全のために
人々は分断され、移動は監視され、公教育は中断し、
公の施設は閉鎖される。

「この状況であるため仕方ない」
「安全のためにそうするしかない」

この一言ですべて片付けられるものなのだろうか。

私たちの生活はいつから、そしていつまで
「基本的人権」と「安全」を天秤にかける生活を余儀なくされるのだろうか。

それが2年続いても仕方ないのだろうか。
国家の判断により、休業指示、自粛要請、移動の制限が
私たちの意思関係なく行われるのだろうか。

それらは全て「安全のため」の一言で受容されるのだろうか。

最も恐れるのは、
いつの間にか国民が「安全」という言葉と用いて、
国家からの支配を要求するようになることである。

安全という大義名分の下で主権を国家に委ねたがってしまうことだ。
それは思考停止であり、
国民としての責任、そして権利の放棄に他ならない。

そして日本社会は
少しずつ無意識的にこの方向に傾きつつあり、
誰も警鐘を鳴らさない。

これこそが現代の日本における
コロナウイルスをめぐって直視しなくてはならない問題の一つである。

 

新型コロナウイルスと私たちの未来

以上が僕が知人と議論した内容の要約である。
拙い文章で説得力のかけらもないかもしれないが、
何か一つ、皆様の頭に引っかかるものがあれば幸いである。

一方で
考えすぎ、ひねくれすぎ、思想が偏ってる。

そう思う人も少なくないと思う。

僕だって別に偏った思想を持っているわけでもないし、
国家陰謀説みたいなのを信じている人間ではない。

知らない人がこんなことを話していたら
考えすぎだよ。って笑ってしまうだろう。

でも考えなきゃいけないことでもあると思う。

コロナウイルスに関してだけでなく、
様々なところで、いろんな状況で多様な問題に直面することがある。
その時にどこまで考えることができるか。
思考を放棄してはいけない。

考えすぎ。大丈夫だよ

そんな言葉は一時凌ぎの麻酔である

最初に書いたように、
フランスではこういう議論が新聞やネットニュース報道されており、
誰でも見れる状況にあるという。

毎日

手洗い、うがい、マスクしましょう。
としか報道しないニュースや報道よりも
よっぽど価値があると僕は思う。

考えることをやめてはならない。

改めてそう痛感した議論であり、
非常に有意義なものだった。

 

*そんなコロナウイルスに立ち向かうために
こんな企画をしています。
どうかご支援よろしくお願いします。

新型コロナウイルスで苦しむ人を笑顔にしたい。だから僕はコーヒーで立ち向かう。
2020年4月、コロナウイルスの感染者、死者は増え続け、確実にこの地球から笑顔が減っている。『無力な』僕ができること。それは『コーヒー』だった。だから僕はコーヒーでコロナウイルス に立ち向かうことにした。そして世界にちょっとしたホッとした時間と、笑顔が戻ることを心より願っています。

コメント