昔、今から20年ほど前、僕はおそらく天才の類に入る人間だった。
少なくとも片鱗はあったのではないかと思う。
小2で小学校を行かなくなったのだが、
親に理由を聞かれ「うるさくて本が読めないから」と答えていた。
知的好奇心の塊だったのだ。
よくテレビで見る天才像のように暇さえあれば図鑑を読んでいた。
家にある本、図書館にある図鑑など片っ端から読んでいた。
特に僕は星座が好きだった。
星座一つひとつのストーリーに恋い焦がれ、それらを容易に暗記していた。
それほど本が好きだったのだ。
中学の時、休み時間に本をずっと読んでいて
友達にどんだけ本読んでんだよと言われた時に
そりゃお前らと遊んでるより楽しいからな
と素で言って友人の顔を凍らせた記憶がある。
もう一つとにかく考えることが好きだったのだ。
たぶん幼稚園の頃か低学年の頃か
僕は公園にある遊具の影が不思議で仕方なくてしょうがなかった。
影ってなんだろう。どうしてあるんだろう。
ある日こんな話を母親にした。
「影ってのはこの地球の本当の姿なんだ。もともと地球は影だけだったんだ。
でも太陽が来て影は無くなっちゃったけど、建物ができて太陽が当たらないから影ができるんだ。だから影ってのはホントの地球の姿なんだ」
当時ハマってた星座や宇宙の本の影響もあるだろうが、
疑問をもち自分なりに仮説を立てるのが好きだった。。
そして当時の将来の夢は科学者になってノーベル賞をもらうことだった。
ただ、不思議なことに他の能力はさっぱりだった。
学校で習う主要科目は軒並み苦手で、
運動神経は悪く、漢字は全く書けず、算数も苦手だった。小学校中学年の年齢になった時、自分の名前さえ漢字で書けなかった。九九も覚えられず通っていた適応指導教室でかけ算の九九を泣くまで覚えさせられた。
その時に僕は勉強が嫌いになった。
余談だけど、漢字がどうしても書けない理由がこの年になって分かったが、
どうやら書字障害というものに該当するらしい。
いくら書いても頭に入らない。見本を見ながら書いても見本が覚えられない。
同じように書いてるつもりが似せることができない。
みてるものと脳内のイメージ、そしてそれを表現する手先がリンクしないのだ。
でも当時からもっと勉強しないからだ!と周りの大人に言われることにより
僕はもっと勉強が嫌いになった。
一方で、
チェスや将棋などはどんどん好きになっていた。数手先を読み、その通りに相手が動かすのがとても嬉しかったのだ。
こんな感じでいかにも凸凹の能力をもち、王道の天才ルートを通っていた僕だったがこれまたよくあるようにその才能は形を潜めた。
ある時から僕は学びを止めてしまったのだ。
不良少年になってしまったのだ。
悪いことをすることのスリルが麻薬のように僕をむしばみ、
学ぶ喜びを超えてしまった。
来る日も来る日も指導教室をサボり、昼間からファミレスやゲームセンターに入り浸ってはいわゆる不良と呼ばれる中高校生達ととつるんでいた。
指導教室の先生は僕や周りの不良少年たちを怒った。今までちゃんとやってたのにどうして?と悲しんでもいた。
ただ、
僕にとって、悪い世界を知ることと星座や慣性の法則を知ることは同じことで
同価値だったのだ。
(ちなみに小学校三年生くらいの時には中学の科学の内容を本で勝手に勉強し始めていた)
学ぶ内容に良いと悪いもなく、大事なのはそれを楽しめるかどうかだったのだ。
そして、不良少年たちとの学びはとても面白かった。ただそれだけだったのだ。
昔から思うことがある。
学ぶ内容に価値の優劣なんてなくて、学ぶことそのものに価値があるのだと思う。
本来、知らないことを知るということは楽しいことなのだ、
不思議なことに強制されることでつまらなくなる。
子どもだろうが大人だろうが学ぶ喜びを大事にできるだけで
とても幸せなことなんだと思う。
ちなみにかつて天才の片鱗を見せていた僕は
20年たった今では、たんなる字が書けない普通の人となった。
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