ドストエフスキー 人間の馴れについて

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あるいは全力のことばたち。

人間はいかなることにも馴れる動物である。
ドストエフスキー
 

 

ドストエフスキー 人間の馴れ


<人間とはOOである>

 


古今東西、人間を定義づけようと試みた数知れず。

パスカルは、「人間を考える葦」と定義づけ、
僕の崇拝するバートランド・ラッセルは「なかば社会的・なかば孤独な存在」としている。

それぞれの定義の背景には語り尽くせぬほどの理由があり、

たった一言で人間の本質を表した深い思慮には頭が下がる。

そんな中このドストエフスキーの「人間は馴れる動物」という言葉は
非常に人間の本質を表していると思う。




この言葉は、ドストエフスキー本人の刑務所での経験が元になっているとされている。
どんなに劣悪な環境でも、人は馴れることができる。

いや、馴れなければ生きていけないのかも知れない。

 森本哲郎が「馴れることは生きること、生きることは馴れることに他ならない」
と述べているように、適応していくことと生きることは同義と言える。

 

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馴れることと生きること

 

「適応=生きる」ことを裏付けるものとして、ダーウィンの進化論も欠かせない。
「生存するためにはその環境に順応していく必要がある」というのがダーウィンの論だけれども、なにもこれは野生の世界に限ったことではなくて、
現代社会でも同じことが言える。


新しい職場、新しい生活環境に飛び込んだ時、人は順応力を問われる。
そしてそこで馴れることができなければそこの世界では生きていくことができない。



いつかこんなところ出てってやる。
こんな生活抜け出してやる。


そう思ったものの、抜け出せる人は少ない。
なぜなら馴れてしまうからだ。
そして、その馴れから抜け出すことは「生からの逃亡」
すなわち「死」なのだ。

だから人は転職する時、飛び出す時に恐怖を感じる。

だから人は馴れる。その場に居続ける、生に執着するのだ。


しかし、面白いことに、
「馴れる」ことに馴れてしまうと、人はその生を実感できなくなるのだ。
ここに人間の不条理で面白い部分を垣間見る。

新しい環境で生きるために、馴れる。
一度
馴れると、そこから抜け出せなくなる。

しかし、馴れてしまうとそこに生の実感がなくなる。

繰り返される日常に飽きてしまうのだ。


そしてまた、新しい環境に飛び込もうとする。
何かを変えようとする。

居心地のよい環境=「生」から一歩踏み出そうとする。


森本哲郎が「人間は馴れる動物ではなく、馴れようと努力する動物なのだ」と言うように、人は新しい刺激を求め、馴れ続けようとするのだ。

日常に埋没した日々は自分を生から遠ざける。

緩やかに心が死んでいく。


だからこそ人は環境を変えようとする、
生きようとする
「今の状況から抜け出したい。自分の世界を変えたい」

その願望の行き着く先が「希望」なのだ。

生を実感できなくなった時、人は希望を見出す。
その希望を求めることで、人は生きることができる。



ドストエフスキーの言葉からそんな人間の本質が見てとれるのだ。

 

 

こんな話が好きな人ぜひ
森本哲郎の著作を読んでみて。

 

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