ある男の手記をたどって(3)〜洗礼はいつも静かに、鮮やかに(1)〜

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旅行



スーツを脱いだ時、
時刻は21時を回っていた。

職場の規模は
小さくなったものの、
居心地は悪くない。

今日の歓迎会だって、
同僚同士のギスギスした感じもなく
楽しい時間だった。

新しい職場にすぐ馴染めるか、
少し不安に思っていたが、
これなら心配はなさそうだ。



冷蔵庫から
ペットボトルの水を取り出し、
コップに注ぐ。

ふと視線を前に向けると、

まだ持ち主を意識していない
机があり、
その上にはあの「手記」が置いてある。

自分が見られていることに
なんの関心を持たず、
ただ、無愛想に天井を眺めている。



吸い込まれるように、
手に取り、
少し黄ばみ始めたページをめくる。


そこには


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洗礼は、いつも静かに、鮮やかに

 

と書いてあった。

毎回毎回
これを書いた人の感性には驚かされる。

一体何を言っているんだ?

 

しかし、

この言葉の意味を知るには
そう時間はかからなかった。

 


騙すものと騙されるもの


とても感じのいい店長だった。

僕はチケット売り場に着いたのは
馬車を降りてから5分程歩いてからだった。

大きくはないものの、
こざっぱりとした事務所で、
ショッピングモールに一角にあっても良さそうな、
ガラス張りの建物だった。


英語があまり話せないこと、
インドに着いたばかりということを
察した店長はすぐさま僕を
奥の窓口へ案内し、
この国では滅多に飲むことができないであろう
冷たい水をコップに注いでくれた。

店内には他に1組のヨーロッパから来たであろう旅人が、
観光用の地図を片手に店員と談笑していた。
地図をタダで配布しているようだった。

そんな風景を眺めていたら、
店長が口を開いた。

「どこへ行きたい?」


僕はできる限り、堂々今までの経緯と
これからの展望を伝えた。

バラナシへ電車で、
中でも一番早い電車で行きたいということ、

出発日は明後日を考えているということ。


感じのいい店長は
その旅行に合わせて様々なプランを提示して来た。


例えば、
バラナシまでの往復を車で行き、
道中を観光できるプランや、

明日の1日をタージマハルのツアーなどだ。

しかし、
僕にとってそれはとりわけ魅力的なものではなく、
ただ、ガンジスに行ければよかった。

そのために、電車のチケットだけ購入したいと伝えた。


少し残念そうな顔した後、
店長はチケットの手配をしてくれた。
そしていくつかの条件が提示された。


・チケットは〜〜ルピー
・支払いは今
・受取りは明日の午前11時以降


チケットの値段は、
僕が事前に調べていたものとほとんど誤差がなかった。

手数料か何かだろうと思って気にすることもなかった。


受取り日が明日ということも
チケットの発券システム上の問題であるということで
特段気になることもなく、

首を縦に振った。


カード払いは少し怖かったので、
現金でその場で支払いを済ませ、

明日来ることを約束し、その場を離れた。




自分で
チケットの手配ができた自信からか、

インドの荒々しい風景が
僕に心を開いてくれたみたいだった。

僕もまた街の喧騒に心を開いた。

そして自分が今、
インドの地に立っていることを
改めて実感し、

颯爽とした気分で宿へ向かった。



どうやら彼は
無事にチケットの手配を終えたみたいだ。
幸先良好で少しだけホッとした。

にしても、
よくまぁ、こんなことができるものだ。


思い出したように
少し緩くなったコップの水を口に含む。


気づいたら
次のページに指をかけていた。



宿に着き、
チェックインを済ます。

といってもどこにでもあるような、
日本人がよく利用している安宿だった。

いつものように、
旅人たちと談笑を始める。

どこからきたのか、
どこへいくのか、

いつからいるのか、
いつまでいるのか、

そんな当たり前で本質的な会話を
しばし楽しむと、

浮かない顔した旅人がやって来た。


開口一番、

「やっちゃったー」


そんなこと言われたら
そこにいる全員が話を聞かなくてはならない。

誰かが
彼の欲する
「どうしたの?」という言葉を発する前に、

彼は話し始めた。


・・・・
・・・・

どうやら、
先ほど、
電車のチケットを購入したみたいだったが、
偽物をつかまされたみたいだ。
そしてその偽チケットを見せてくれた。

偽チケットといっても、
全く使用不可なのではなく、
ただ、純粋に
行き先も乗り場もめちゃくちゃで、
全く役に立たないものだった。



ただし、
僕の心がざわつかせるには十分だった。

なぜ彼はその偽チケットを今手にしているのだろうか。


チケットの発券システム上、
当日受け取りはできないはずでは?


そこにいた旅人全員が


その場で受け取り可能であることを
僕に告げる。


じんわりと汗がにじむ。


僕は今日の出来事を話した。

ただ、
話している最中に、
もう気づいてた。


そこにいる旅人全ての目が


「お前は騙されている」


そう僕に告げていた。


そして、


「チケット売り場は駅にある。
移転なんてしていない」


トドメの一言をありがたく頂戴する羽目になった。


はっきりとした狼狽を顔に浮かべて
僕は言葉を失った。


偽チケットをつかまされた旅人が


「明日のチケット受け取りまで待ってみなよ。
まだ騙されたと決まったわけじゃないから」

と申し訳なさそうに僕を励まそうとする。


インドに来て1日目

僕はもう、おそらく騙されている。

洗礼はいつだって、
静かに、そして鮮やかにくるものなのだから。




しまった。
つい読み耽ってしまった。

しかし、
どうしても続きが読みたい。

彼は騙されたのだろうか。
仮に騙されたとしたらどうするのだろうか。


ふと、
どっからともなく、
タバコや料理の匂いが鼻につく。

歓迎会で行った居酒屋の匂いが
いつの間にか服や髪の毛に染み付いていた。


ともすると、

この歓迎会も

静かに鮮やかに
僕に洗礼を与えたと言えるのだろうか。



まぁ、いい。
とにかくシャワーを浴びた方が良さそうだ。

そんなことを考えながら

僕は脱衣所に向かった。


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