「チャンスの神様の前髪を掴む」
僕がいつだって大切にしている言葉である。
昔これについて色々と書いたが
改めてこれは大事なことだと思う。
そもそもこの言葉に出会ったのは大学3年生の頃だった。
僕の通っていた大学には、発展途上国の保健体育を促進する研修室があった。
(主に東南アジアのラオス)
そんでそこの教授が一緒にラオスにいく学生を募集したのだった。
大学3年生といえば、
世界一周や、国際協力、海外、留学
などのキラキラした単語に無性に憧れる年頃であって、
誰もがこのままでいいのか、このまま就職するで良いのか、と迷える子羊と化している。
そんな中、いかにも「THE国際協力」へ繋がる一つのチャンスが飛び込んできたらそりゃもう、ライオンの檻にウサギを放り込むもので、、、、
と思ったが意外と参加者が少なかった。
その教授曰く、「お客様ではなく、一人の支援者としていく」が前提であって、
現地の教員や生徒に対してプログラムを実施したり、日々の活動をサポートするという任務がしっかり与えられるという。
できれば現地語も勉強してからいく。少なくとも英語で話せるように。ということだった。
キラキラワードに憧れる若者たちはいう、
まだ英語不安だから、、、
プログラムの企画、準備はまだできないから
来年まで勉強してから。。。
などなど。口には出さないにせよ、心の中でブレーキをかけ始める。
そんな時、その教授は
僕ら学生に向かって「チャンスの神様の前髪をつかめ」と言ったのだった。
(巷では「チャンスの神様には前髪しか生えてない」ともいうらしい)
それはさておき、
要は、チャンスの神様がこっちをみてくれる時に掴めるものはなんでもつかめ、
そっぽを向かれたらもう掴めるところはない。
前髪しか生えてないのは、こっちを向いている時にしか掴むことができないからだ。
だからこそ、せっかくのチャンスにもじもじしているようじゃ一生掴むことができないぞ
という教授なりのゲキだったのかもしれない。
この言葉は今も僕の中に残っている。
だからこそ、このラオス研修にも飛び込んだし、なんならついでにインドを旅してこようということで、先に一人でインドにいき、そこからラオスで現地集合して教授をちょっとハラハラさせた記憶がある。
そこからJICAにいきたいという気持ちも生まれたし、その経験が僕に中南米の旅をさせたし、それが今の僕につながっていると思うと、あの時前髪をつかめて本当に良かったと思う。
この前、ある方と話していた時に、心に残った言葉がある。
諦めるのはいつでもできる。
でも、チャレンジは今しかできない。
その通りだと思う。
まだまだチャレンジが足りない。もっといろんな世界を見たい。
ちなみに、冒頭のリンク先の記事で書いた
人生で一番高い契約は、正直あまり意味を持たず、結果として大金を失っただけだった。
チャンスの神様の前髪を掴むことはできるが、
神様が必ずし微笑んでくれるとは限らないのだ。そんなことを学んだ。
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