就活生に捧ぐ、仕事と適正、そして天職

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あるいは全力のことばたち。


働く時に、多くの人が言う。

この職場じゃ自分の適性が活かせない。自分の能力が発揮できない。と。

働く時に人は自分の適性から仕事を考える。
すなわち、自分の適性や能力を出発点として、仕事を選んでいく。
そういう前提がある。

でも実際にそれは正しいのか。

思うにこのプロセスは逆なのではないか。

自分の能力や適正を前提に仕事を選ぶのではなく、
与えられた職場や条件のなかで自分の出せる能力を見出し、発揮していく。

この流れこそが大事なのではないかと思う。

もちろんこれを社会の歯車化、というふうにネガティブに比喩することはあるけれど、
でもそれでいいんじゃないかと思うのです。

なぜ、歯車になってはいけないのか。

この比喩には個人性の埋没や自分を殺していくといった意味合いが含まれているけれど、
そもそもその自分の個性や適性をどこまで自分で知っているのか。
と僕は思うのです。

おぼろげなイメージ「なんとなく自分はこういう人だ」
という不確定なコンパスを持ち、歩く道を決めようとしているにすぎないのではないか。

もちろん最初から最後まで
すでに行き先を指し示しているコンパスを持っている人はそれでいいのかもしれないけれど、多数がまだそんなしっかりとしたコンパスは持っていない。

「自分のやりたい仕事」「こういう仕事がしたい」というのは
あくまで願望であって、適正や能力は違う。

歩きたい道の希望はあるけれど、その道がどこに続いているかという方向性は定まっていないのではないか。

でもそれが普通なんだと思う。

じゃあそのコンパスはどこで手に入るのか。という話なんだけれど、
僕が思うに、それは実際に歩き始めて道中で少しずつ手に入れていくものなのだと思う。

働いてみて、改めて自分の適正に気づく。
あれ、自分こういうの得意のかもしれない。苦にならない。楽しいと思える。
また逆も然りで、合わない部分が見えてくる。


それが最初に一歩であり、そこで初めて自分の適性が実体験を通して見えてくる。
歩き出したからと言って、戻っちゃいけないわけではなくて、
この方向性、道は合わないなと思えば引き返せばいい。
ただその時には一つ確実性が増したコンパスを手にし、
目指すべきではない方向性がわかっている。

この繰り返しが自分の適性を見出す唯一の方法であり、
自分の行きたい方を自分に暗示してくれる。

とりあえず働け、動けという単略的ことを言ってるのではなくて、
そこにある意味合いを知ることで自分が地図上のどこに立っていてどこを向いているのかが見えてくると思うのです。


人は経験を通してでしか学べない生き物なのだ。

もちろん石の上にも三年というように長くい続ける必要はないけれど、
座ってみないとその石の座り心地の良さ悪さはわからない。
硬そうで、座りたくないと思っていても、座ってみたら意
外とこのくぼみが自分にフィットするかも。。。
というのが起こりうるかもしれない。

適性を知る、天職を探すというのはここから始まるのではないだろうか

なんてことを思う。

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