デジタル化する「価値」

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大いなるひとりごと
Hand of male putting wood cube block with word VALUE on wooden table

僕が思うに、
「価値」と言う言葉は2年周期くらいで様々な尾鰭をつけて、巷で盛り上がる気がする。


やれ、
体験価値だの
付加価値だの
距離的な価値だの

まぁ、ともかくそんな感じで「価値」という言葉が玉石混合、縦横無尽に駆け巡る。


価値ってなんだろうね、という哲学的な問いはおいといて、
最近読んだ記事でとても面白いのがあった。

ざっくり言うと、
「デジタル化する価値」というものだった。


こんな書き出しで始まる。

家が火事になった時、何か一つだけ持ち出せるとしたらあなたは何を持ち出すか、
どんなものでも同じ重さ、形で持ち出せるという仮定で。

その時に、あるものは買ったばかりのスポーツ用品かもしれないし、
乾燥機能付きの洗濯機かもしれない。
もしくはコロナ禍で持て余した時間を娯楽に変えてくれたパソコンやテレビかもしれない。

でもその時に、かつて家族と撮った写真を選ぶ人はいるのか。

この記事の肝は、
価値は全てもうデジタル化しているという
結婚記念写真や、子どもの写真はすでにもうデータ化し、
物質として存在しなくなっている。

額縁に飾ってある昔撮った家族の集合写真。
それは乾燥機能付き洗濯機より価値のあるもののように見える。
だけれど、きっと火事の時にその写真をサッとポケットに突っ込む人は少ないだろう。

なぜならデータとして保存されているから

額縁の写真とデータ化された写真

映し出すものは同じなのにそこにある価値は、別のものとなってしまっている

言われてみればその通りだと僕は思う。
いつの間に全てのものはデータ化されて、
瞬時にアクセスが可能なわけで。

その一つ一つはとても大事な価値を持っているのだけれど、
いつでもどこでも瞬時にアクセスできると言う利便性が同時にその価値を奪っているような気がする。
別にアナログの世界に戻れというわけではないけれど、
身の回りに一つは本当に大事だと思うもの、
火事の時にこれだけは守りたいと思えるものが一つあるのは、
それはそれで価値のある生活なのだ。なんて思ったりする。

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