障害者と権力者

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LITALICO
Shot of a woman posing with a chalk illustration of flexing muscles against a dark background

リタリコで働いていると、いろんな障害を持った子が毎日訪れる。
障害という言葉の定義とか、持つとかどうとかその是非はとりあえずおいといて、
毎日いろんな子がやってくる。

昨日、OOして遊んだんだよ。
最近このゲームやってるんだ

そう笑って言う子どもはどこにでもいるような「普通」の子ばっかり。

でもきっと、みんなはここを一歩出ればきっといろんな生き辛さを感じてるんだろうな、と思うと少しやりきれなくなる。

学校で友だちとうまくコミュニケーション取れなかったり、
感情を抑えられなかったり、先生に怒られたり。

彼らはいわゆる診断を受けて、
ADHDとか、LDとか、自閉症とか、様々な特性を持つ。


どこにでもいる普通の子なのに、少しだけ、「多数と違う」と言うことだけで、
生きづらさを感じているだと思う。
(感じてないのならそれはとても嬉しいことなのだけど)


僕らが毎日やっていることは、きっと彼らのためになっているのだと思う。
彼らが目指す自分になるためのお手伝いを少しでもできているような気もしている。

でも、きっと社会はそういうふうにできていない。
自己実現が可能な社会は圧倒的に権力を持っている人に対して開かれている。

子どもたちの話を聞くと、時に理解のない人に苦しめられている。

なんだかとてももどかしい。

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権力は数的多数に内在しているわけではない。

この前そんな話を聞いた。

例えば日本は人口的に女性の方が多いけれど、女性が権力を持っている、有利な状況にいるかといえばそうではない。少数の男性側にまだまだ権力があるのは明らかなわけで。

じゃあ権力はどこにあるのかといえば、
生まれたところだったり、育った環境だったり、目に見えないところにある。
というか、その権力がどこにあるか、と言うのを考えたことのない人こそが、社会で有利な状況にいると言っても良い。

権力は透明な自動ドアなのだ。
そう僕に話してくれた人は言う。
まったく持ってその通りだと思う。

見えない自動ドアを意識することなんて普通に生きていればできやしない。

歩いていて勝手に扉の方が開いていく。でもそのことにすら気づかない。

ところが、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人たちにとって、
権力は重い手動ドアで、自分の力でこじ開けていく必要がある。

目に見えるどころか、行手を阻もうとさえする。

社会が変わるためには、いわゆる弱者がその扉を主張してもあんまり意味がない。
だって権力者には見えていないから。

だからこそ、普通に生きてこれている=権力を持つ者が
目に見えない何かに目を凝らす必要があるんだと思うのだ。

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