「読む」ということ

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後半アディショナルタイム

味方のスルーパスに反応し、裏に抜け出したFWがPKエリア内でファールを受けたが

レフェリーはシュミレーションと判断、警告がくだされた。

GKがすぐさまのロングボールを放ちカウンターに転じる

サイドハーフがトラップし、トップ下に預ける。厳しいチェックを受けるが、レフェリーはアドバンテージをとる。

オーバーラップした右SBがパスを受けすぐさまアーリクロスをあげ、FWがダイレクトボレーを決めるが、わずかにオフサイドラインを超えていた。

結果、勝ち点をお互いに1ずつ分け合った

ざっと適当に書いてみてもサッカーには多くの専門用語がある。

サッカーに詳しい人がみたら内容はわかるし、情景も浮かぶだろう。

しかし、未経験者でサッカーに興味のない人は何がなんだかわからないことだらけに映るだろう。

テクニカルターム、専門用語はごろごろしている。

文字が読める人は読むことができる。

しかし、理解はできない。

はたしてそれは「読む」ということになるのだろうか。

文字を読む

それすなわち理解するということにはつながらない。

それは素読にすぎない。

そんなことは日々、日常茶飯事である

さて、

今日、家庭科の被服学基礎の授業でそんなことが起きた。

それは「なかおもて」だからちがうよ。

「まち」を考えてる?

「たちめ」を丁寧に。

等等

数えきれないくらいに専門用語

というか普段なじみがない言葉が容赦なく襲いかかる。

結局どういうこと?

どうすればいいの?という本質的理解がされぬまま、

言われた通りになぁなぁと作業は進む。

今日の教育現場でこのような光景はよく起きているのでないか。

教師(教える立場)は往々にして難しい言葉を使いたがる

否、それが、専門性の高い難しい言葉だと認識していない。

生徒にとってそれはフラストレーションにつながり、

教師にとっては説明したのにできないなんてというストレスにもつながる

(ん?ストレスとフラストレーションってなにがちがうのかな。)

でも、いくら説明されてもイメージ。想像。ができないとただの素読。

逆にイメージができていたら、つたない言葉でも伝わる。

そういう経験ないだろうか。

作業をしているときにイメージを共有できていれば、

あれ、それ、これという日本語独自の表現が生きる。

そして今日の発見。

専門用語を説明するときには、

言い換えが必要で

同言語よりも他言語が意外と伝わるということ。

(なによりもシンプルに)

先に挙げた「たちめ」は

日本語で説明するよりも英語でばっさり。

断ち目=cutting line

日本語だと布をきり終わった端の線かな。

(ちなみに「まち」はスペースかな・・・?)

(「そとおもて」は感覚で言うとリバーシブル・・・

ちょっと違うと教授に言われたけど

日本語説明だと

完成時に袋をひっくり返すからあらかじめ生地を裏返しにし縫い合わせていく

というような説明を受ける。

よくわからん。)

ということである。

人と話していても、微妙なニュアンスを伝えるために

英語で伝えることは意外と少なくない。

考えてみれば妙である。

日本語特有の言い回しや意味を

説明するときに

他言語を用いる方が便利だということ。

妙だな。

なら日本語とは他言語との交互性が高いのか。

というわけでもない。

いやどうだろう。

日本語を英語ではよくあるが

逆はあるのか。

僕らは日本語ネイティブだからこそ起こりうる現象なのか。

うーむ

謎は深まるばかり。

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