現代美術の是非。 大いなるひとりごと7

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大いなるひとりごと

はい。

その7

 

とりあえずあと3つで終わるよー。

 

 

なにこれって思う人はその1へどうぞ。

 


 

 

当時の原文(に修正をちょっと加えたもの)

 

 

ぼくの大いなるひとりごと。PART 7
~現代美術の是非~
          

 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。
なので、先行研究や学術的根拠はないです。
特に興味のない人はメモ書きにして修論に役立てましょう。

 


そもそも「現代美術とはなにか」

ボクはこの問いにはまだ答えることができません。

 


それはすなわち

 

「アート」 

「美」

 

とはなにかを考えることに等しく、難しいことだから。


しかし、現代美術とされているモノの代表例を上げることはできます。
そこからまずは考えてみましょう。

 

日本で今一番有名なのはChim↑Pom(チンポム)という団体ですかね。

 

彼らの功績(?)として有名なのは、

 


渋谷のネズミを実際に捕まえて剥製にし、
黄色く塗って、「ピカチュウ」にするとか、

 

広島の空に飛行機雲で「ピカ」と書いたりと、

 

なかなかぶっ飛んだ集団。

 

 

現代美術を考えるにあたって、今回は社会への影響という視点から
捉えてみることにしましょう。


 では、現代美術は現代社会、(とりわけ「美術」の分野に関して)にどのような影響を与えるのでしょうか。

 

ボクは、
現代美術の普及がもたらす一つの影響は、

 


「アーティストと素人の境界線の喪失」

 

なのではないかと考えています。

 

 

例えば、ネズミの剥製や、「ピカ」と広島の空に書くことは
アーティストではなくてもできますよね。

 

つまり絵画の技法や、彫刻の専門的な知識・技能が不要だからです。

 

それどころか、
コップを割って「グラス」として展示するということも現代美術として認められます。

そうなれば僕だってできますから、

僕も現代美術アーティストの仲間入りです。

 

いわゆるなんでもアリの現代美術が普及していくことによって、
アーティストと素人の技術的な面における境界線が失われている
と言えるのではないでしょうか。

 

 第二に現代美術は、
今日までの「美術」への認識の転換をせまるのことにつながるのではないか。

 


かつてから続く美術の系譜には、
より繊細にを目指すというのがあります
(もちろん一つの流れに過ぎませんが)。

つまり、美術とはモノを「より正確に製作する」

 

ということに重きを置いている側面があります。

 

ところが、現代において

その美術の流れにある変化が起きているのではないでしょうか。

それが現代美術によって引き起こされる影響なのではないかと僕は考えます。

 

先に挙げた「ピカチュウ」はリアルでしょうか。もちろんリアルです。

しかしその「リアル」と、

古来から継承される「リアル(正確さ)

には圧倒的な違いがありますよね。

 

つまり、

チンポムの作品は「現実のネズミを捕まえる」という
また違ったリアルを求めています。

 

「ピカ」も同様に実際に

原爆の比喩表現である、

「ピカ」を広島の上空に書くというリアルを追求しています。

 

つまり、「現代美術」の普及により、

美に対する認識のパラダイムシフトが起きつつあるのではないでしょうか。

 

すなわち、


より正確なモノをつくるという流れから、

よりリアルなコトをつくるということです


まぁ、現代美術について云々話してきましたが、紙幅がないのでこの辺で!
次回はことばの面白さについてです!

 


 

 

現在の僕の考察

 

 


えーっと

まずはあれです。

世の美術家、アーティスト、ならびにそれらに関連のある人へ

3年前の僕に変わって謝罪します。

 

 

好き勝手に生意気なことを言ってすませんでした。
無知が故です。許してください。

 

 

 

と、謝罪はこの辺にし、考察に行きましょう。

 


まず、当時の僕が訴えたかったのは、

現代美術の是非、ですね。


要は現代美術なんてものが存在していいのか、ということです。


そう思う理由としては、
1点目にプロと素人の境界線の喪失

2点目に美術への認識を変えてしまう恐れ

を挙げています。


わかりやすく言うと、
「美術」を「美」と「術」に分けて捉えているわけですね。

 

「術」が必要ではなくなるのではないか。


「美」の捉え方が変わるのではないか。

 

そういう話なわけです。


ということで、現代の僕はどう考えるのか、という話をして行きましょう。

 

結論を急ぐならば、昔の自分に対して、

「いや、何言ってんの?」

という感じです


まずは、
「術」について。

アーティストと素人の線引きがなくなることを危惧しているけれど、
そもそもアーティストと素人の線引きなんてあったのだろうか。
ということです。

もちろん絵の書き方や、木の掘り方という技術的な側面の違いはあります。

でもその技術の差が、そのままアーティストと素人の差なのか、

という点には疑問が残るわけです。

 

 

極端な話、

未熟な人でもアーティストであるし、

上手な人でもアーティストではない人もいるわけです。

 

僕が思うに、アーティストと素人の境界線なんてものはそもそもなくて、


強いて境界線を引くのであれば、

 

それは「美術に対する向き合い方」なのではないかと思います。

 

コップを割って、展示すればアーティスト、と当時の僕は言いますが、


そこに僕はおそらく向き合ってません。

なので、僕はやっぱりアーティストではないわけです。

 

でも「コップを割る」ということに対して、

真摯に向き合うことができるのならば、

それはアーティストなのかもしれないと思うわけです。

 


「美」について

これは全くもって、見当はずれな考え方なのではないか、と現在の僕は思います。

 

要は、


「モノ」を追求していた「美」が
「コト」追求する「美」に侵食されるのではないか、

 

という話かと思います。


これに対して一言で反論するならば、

「そもそも別物だろ」ということです。

 

 

スポーツで例えるならば、
野球とソフトボールはほとんど似ていますが、


そこで要求される技術や考え方は別物です。

 

野球が大切にしてきた考え方や戦術が、ソフトボールの台頭によって、
変わるのか、という話に近いのではないでしょうか。

 

要は現代美術が追求する「美」と

古来から続く「美」は似て非なるものであって、

別次元に位置しているのではないか。

 

多少の影響はあっても、

美の認識に対するパラダイムシフトは起きないと考えます。

 

 

とは言いながらも、

境界線や、「美」のあり方について改めて触れることができたのは、
紛れもなく「現代美術」という存在のおかげであることは紛れも無い事実。

 

 

いいきっかけをありがとう。


余談だけど、
現代美術の是非を考えるにあたって、
「美」との関連性というよりも、

広島の空にピカと書くことについての道徳的な側面から見た方が
多分面白い。

「美術」という言葉は果たしてどれほどの免罪符になりうるのか。

こういうのも考えたら面白そうだよね。


ながくなっちゃった。
またね。

 

 

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