「考えるを考える」 大いなるひとりごと3

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大いなるひとりごと

はい。その3

 

これが1番好きかもしれない。

というか納得した。自分で。

 

ま、このシリーズについてはその1をご覧ください。

 

 


 

当時の原文(にちょっと手を加えたもの)

 

ぼくの大いなるひとりごと。PART 3
~「考える」を考える 編~
          
 これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。

なので、先行研究や学術的根拠はないです。

特に興味のない人は紙飛行機にして憂鬱と共に投げ捨ててください。

 

昔、テレビかなんかで「会議室で話されていることの7割くらいは無駄だ」

という言葉を聞いたことがあります。

 

だとしたら会議室の本末転倒感は凄まじいことになりそうです。   

 

また、日本語には「机上の空論」という諺があります。

どうして机上なんでしょうね。

基本的に人は机に向かって

学習、思考するという文化があるのにかかわらず、です。

  
広辞苑によると「机上の空論」とは、

「机上で考えただけで、実際には役に立たない案や意見」とあります。

 

むむむ。

なんだか会議室のくだりと関連する部分がありそうです。

 


さて、人類にとって、

「考える」という営みは人類たる証拠であるとも言えます。

 

「我考える、故に我あり」(実際には「疑う」だけど)

「考える葦」など数々の歴史が「考える」という営みを評価しています。


僕が「思考の整理学」という本を読んだ時に知ったのですが、

中国では古くから人がモノを考えるのは

 

馬上

枕上

厠上

(いわゆる三上)

 

が良いと言われていたみたいです。

・「馬上」つまり移動中

 

・「枕上」寝る前もしくは起き抜け時

 

・「厠上」用を足している時

 

 

なんだか分かる気がしますよね。

寝る前とかに

あ!!って思うことありますもんね。

 

さて、ここからが面白いところ。

 


この三上に「机」がないというのも非常に興味深いことです。

 

古今東西、机の上での思考は役立たずである

ということなのでしょうか。


では、ここで疑問ですが、

なぜ、

三上があの三つ(馬上・枕上・厠上)なのでしょうか。

机上との差は何なんでしょうか。

 

共通項を見つけると見えてくるかもしれません。

 

ちょっと考えてみましょう。

 

一例として、机や会議室は思考することが目的として成り立ってますよね。

そのために雑音がないように壁を厚くしたり、

喧騒から離れた場所に設置したりというおぜん立てをいろいろしているわけです。

 

逆に言うと三上は移動すること、寝ること、用を足すことがメインであって、

思考をメインにしてません。

このことから見えてくるのは、

 

考えるという行為は、

考えるという行為を脇に置いている時に絶大な効果を生むのではないでしょうか。

 

ぼーっとしている時にひらめくというのはよくある話ですよね。

 

また、アメリカではビジネスマン同士の仕事の話はカフェでやることが多いと聞きます。

それは雰囲気や、満腹時のリラックス効果によって良い交渉ができるからだと言います。

 

そこからも思考は強制されるとうまく機能しないのかもしれません。

 

 

よくクイズ番組で簡単な問題なのに

「制限時間」というプレッシャーに負けて答えられないシーンがあります。

 

あれも同じことでしょう。

 

机の上も会議室も考えなくてはならない

という強迫観念が内在しているのではないでしょうか。

 

北欧の教室も、もしかしたら関連があるかもしれません。

思考は強制されるものではないのですね。

 


以上、考えることを考えてみました。

今回はいつにもまして脈絡のないひとりごとでした。すいません。

次回は虚構のリアリズムについてです。

 

現在の僕の考察

 

いや、

 

普通に面白くね?これ。

 

あーなるほどなぁ。。。

って改めて思えることばっかりなんですが。

 

ま、まずは

要約しましょう。

 

 

まず大事なのは、

昔から言われている三上について。

 

考えるに適しているのは、

移動中、寝る時もしくは寝起き時、そして用を足している時

ということでした。

ここに机や会議室が入ってこないってのがミソ。

 

でもこれには

あぁ、確かに、って思えるところがあると思います。

 

思考は強制されるとうまく働かない。

 

移動中のように他に意識がいっている時、

もしくは無意識の時

 

枕上のように脳みそが空っぽになっている時、

 

用を足してリラックスしている時

 

にその本領を発揮するということです。

 

 

考えることは人の営みとしてとても評価されているのにも関わらず、

 

それを行おうとするとうまくいかない。

面白い構造ですね。

 

だからこそ、最初に書いてある、

会議室の本末転倒感は凄まじいっていう文章は

 

後の結論の伏線だった。

ということです。

 

やるじゃん。昔の自分。

 

 

 

さて、

僕が考えるに、「考える」には二つのタイプがあります。

 

一つは

事実を事実で捉えようとすること

 

もう一つは

事実を想像で捉えようとすること

 

 

前者は例えば数学とか物理とかを考える時

 

数学や物理の問いっていうのは

非常にロジカルで、

 

ここをこうしたらこうなって、、

というのが見えるわけですよね。脳みその中で。

 

もっと分かりやすく言えば、

携帯を落としたら画面が割れる。

だからこそ、下にクションを敷いてみる。もしくはカバーをつける

という行為。

 

つまり事実や現実を事実や現実の中で捉えて行く作業。

 

 

一方は

 

そういう現実の枠では収めきれない思考形態。

 

例えば宇宙の存在。

自分が生まれた理由とか

 

そういうのを考える時は

現実の枠ではないわけです。

つまり、

事実や現実を想像や仮想で捉えて行く行為

 

 

この二つには圧倒的な差があるんじゃないかな。

 

と僕は思っているわけです。

 

 

 

まぁ、それがどうしたって話ですけど。

 

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