「過ぎ行く日々に流れ行く葉っぱ」のこと

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(写真はFBにて)
そういえば、
言葉も全然わからない国に飛ばされ
誰も知ってる人がいない村に飛ばされ、食べたことのない料理やフルーツに囲まれ、
扉がない家に住み始め、冷蔵庫もないから保存がきく缶詰ひたすら食ってカーテンを窓がわりにして、物は床に置くしかなくて
 
職場ではお前誰?何しに来たの?
日本?なにそれ?中国人だろ?なにか中国語喋ってよ。
と言われつつ、
ここで2年。仕事せい。
と言われたのが一年とちょっと前のこと。
 
それが今では、
言葉も少しはわかるようになって、この国の文化や地理もちょっとはわかるようになって
ちょっとしたジョークも飛ばせるようになって
好きな食べ物も、嫌いな食べ物もできて
トイレと寝室だけには扉がついて
冷蔵庫を手に入れて棚を作って
 
職場では
中国人から日本人、日本人から青年、青年からこうすけ
と呼ばれるようになって
一緒に仕事しようぜって言えるような仲間ができて
 
そしておととい昨日には
小さいし、たった計10時間そんな大したものではないけれど
同僚、近辺の学校の先生を呼んだちょっとしたセミナーを行うことができました。
 
このセミナーを行うにあたって、
僕たちボランティアがいろんなことを伝えていく、という目的を最初に立てて、仲間のボランティアを呼んで、よくあるセミナーにしようと最初は考えて、準備を進めてきたけれど、でもそれは、なんていうか、ある意味で自分のしてきた仕事や、同僚を信じきれていないことでもあったわけで。
自分たちでやったほうがそりゃ楽なんだけど、やっぱりなんか違うよなぁ。という気持ちはやっぱりあって
 
だからここで、一回信じてみよう。ということで
僕たちが伝えてきたことを現地の人がどれだけ学んでくれたのか、というのを僕の仕事仲間の口からパナマの人へ伝えて欲しい、という目的に変え、
半分以上は同僚に前に立ってもらって僕はたった1時間しか発表はしないことにしました。
 
そして1日目、同僚の二人がまずは1時間ずつ発表したんだけれど、
その姿を見て、あぁ、ここまで、気づかないうちにこんなにたくさんのことを学んでいてくれてたのか、ということに気づいて、
授業の内容もそうだけど、教材を貼ったり剥がしたり、物を手渡したり、そういう小さな手助け、参加者の様子を確認して、助言したりする、まるで僕たちが普段やっていることを当たり前のように、僕が指示したわけでもないのにやっている、そういうパナマの人の姿を見てシンプルにとても嬉しかった。
 
よく職場や、セミナーの場で、
日本とパナマ教育のシステムは違う、
日本人とパナマ人は違う、お前らは日本人だからできるんだよ。私たちはパナマ人だからできない。
 
そんな不満や言い訳のようなことをよく耳にするけれど、
できるじゃん。みんなすげーじゃん。僕よりよっぽど授業うまいじゃん。変われるじゃん。そういう姿を見て、
なんだか、嬉しくて僕は開始2時間で泣き教室を飛びたすという青臭い愚行をしでかしました。
 
 
もちろん来週からはいつものような
よくわかんない授業スタイルに戻っていく可能性の方が高いけど、
それでも授業を準備して、教材を考えて丁寧にゆっくり教えていく、という経験はきっと彼女らの心に残ってくれるんじゃないかな。と思っています。
3歩進んで4歩戻るかもしれないけど。
いいじゃん、一回でも3歩進んだのなら。
 
もうこれだけで僕がここにきた意味は少しはあったんだなぁ。と思います。
 
セミナーの準備の時に、
同僚を他のセミナーに連れってったり、違う小学校の知らない先生の授業を一緒に見学して、ここは僕たちの学校でもつまずくよねぇ。どうしたらいいかねぇ。なんて話し合いができたり、時折喧嘩もして
少しずつ
何も知らないから助けてあげる、教えてあげる対象
から
一緒にがんばろうぜって言える仲間になってきてる
そんな日々の積み重ねの一つの区切りが
おととい昨日と見れたのが嬉しいわけです。
 
来た時は
何しにきた?あ、なに?授業改善?じゃあよくして。うん適当に頑張って。
と言っていた校長に、
へいこうすけ、来年も残れよ。
という一声ももらえたり
(もちろん「嫌だ」と答えましたが)
 
そんなことを思うような、
こんなことがありました。
 
協力してくれたボランティアの皆さんには
本当に助けていただきました。
ありがとうございました。
 
 
なにも変わりばえしないように映る日々は
それでも確実に過ぎゆきながら、
そして着々と何かしらの変化を僕たちにもたらしながら
ゆっくりと日々に流れていくのです。
まるで流れ行く川に浮かぶ葉っぱのように。
 
 
 
 

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