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学校は、しばしば「生きる力を学ぶ場」と称されることがあります。
確かに数多くの出会いと経験があり、学ぶことも多いのは間違いありません。しかし、ミシェル・フーコー(Michel Foucault)が学校のシステムを「監獄」と比喩したり、土井隆義が「友だち地獄 」・「地雷原」などと述べているように、学校は「生き辛さ」と「息苦しさ」を内包していることも看過できません。
学校が持つ「学ぶ場」としての意義
と
学校に潜む「息苦しさ」という裏側
中島さん(仮名・教育関係者)はこの二つの関係性について、
緻密に、そして鮮やかに私たちに語りかけてくれます。
学校はなぜ必要なのか
不登校のレッテルを貼られて嫌な思いをしたり、聞き飽きるくらい学校の必要性が語られたりするのは、まだ公教育のメリットを経験してきた人たちが圧倒的に多数派だからなのではないでしょうか。(Voices Vol 6)
そう中島さんは言います。
確かに、圧倒的多数が公教育を受け、それなりのメリットを享受しているのは確かです。また、『良かれと思って』次世代にも繰り返すのも自然な話です。
しかし、私たちが目を向けなければいけないのは、
多数ではなく、少数の子どもたちなのではないでしょうか。
メリットを享受する多数の子どもたちと
学校から遠のく少数の子どもたち
その違いはどこにあるのでしょうか。
また、
中島さんは一方的に学校を批判するのではなく、
・なぜ必要とされているのか、意義はどこにあるのか。
・学校必要論と不要論の狭間で揺れ動く学校の意義と理不尽さ
などについて丁寧に語ってくれます。
その上で、公教育の名の上にあぐらをかく「学校」というシステム外にも
新たな可能性を見出そうとします。
学校で得られるとされているものは、学校以外では得られないのか。
本質的であり、かつシンプルな問いかけに私たちはどう答えるべきなのでしょうか。
多様化しつつある社会において、学校(=教育)もその姿形を変えなくてはいけない時代に差し掛かっています。
今までの教育に一石を投じる中島さんの声、是非お聞きください
(菊地)
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