(本記事は前回の続きとなります)
中学校での不登校
中学校に無事入学し、中一ギャップの様子もなく順調に登校できる日々が続きました。委員会や学校行事など、普段とは違う動きをしなければならないときは戸惑いましたが、何とか流れに乗ってやり過ごせました。
私は運動部に所属していたのですが、この選択が間違いだったのかなぁと今でも後悔することがあります。
部活には、仲良しの友だち2人と一緒に入部しました。他にも気の合いそうな子が居ました。少しタイプの違う、派手な女の子たちも入部していましたが、仲良く話せるようになりました。先輩も優しく、部活そのものにも熱中でき、とても充実した生活を送っていました。
中1の頃の私は、昔まったく学校へ行かなかったとは思えないほど前向きで何事にも一生懸命で、素直だったように感じます。学校に行っていなかったからこそ、人が人を嫌うという感情を知らず、何でも真っすぐに受け止めていました。言い方を変えると世間知らずだったのです。
女の子同士の妬みや、人の見た目を笑いのネタにすること、恋愛において好きでもない人と付き合うということ、優越感、そういうことを知らずに生活していました。
そして、中学校2年生になり、夏休みが来ると同時くらいに、私はいじめられるようになっていました。部活内はだれかをターゲットにして悪口を言うことを習慣とする集団になっていました。
私の弱さは、友だちが悪口を言われているときに見て見ぬふりをしてしまったことです。自分も笑われて当然です。
けれど、友だちだと思っていた人と対等な立場で話せないことはとても心苦しく、辛かったです。主に見た目のことを笑われていたため、恥ずかしくて誰にも相談できませんでした。顔や身体の特徴にちなんだあだ名をつけられ、今でも自分の容姿にコンプレックスをもっています。
そんな日々が続き、学校に行きたくないと思いながらも重い身体を引きずって登校していました。ある日、体育の授業がありました。私は筋力が少ないため、運動をするときに独特の動きになっていることがあるらしく、部活中も体育の授業でもそれをよく笑われていました。それが嫌だったため、その日は見学をしていました。
自意識過剰になっていたのかわかりませんが、同じ部活の子たちが、見学している私の顔を見て笑っていました。
もう限界だ。ここにいる意味はない。
そう考えた私は、体育教師に「お手洗いへ行きます」と言って教室に戻りました。ドアのカギは閉まっていたので窓から教室へ入り、もてるだけの荷物をもって学校からエスケープしました。家に着くと母親が居ました。「どうしたん」と聞かれましたが、「もう学校行かないから」とだけ返事をして、自分の部屋に引きこもりました。その後学校から電話があり、母は私がエスケープしたことを知ったようです。
夜になり父が帰宅し、「何があったんや」と聞かれました。母への返答と同じように「もう学校へは行かない」と答えました。「行きたくなくなるような、何かをされたんか」と尋ねられましたが、「言いたくない」と答えました。その日からまた、長い暗闇のトンネルに入ったような感覚でした。
毎日のように学校の夢を見ます。目を覚ますたび、「あぁ、もう学校へは行かなくていいんだった」と、安堵のような諦めのような感情が湧いてきます。悔しくて泣いたり、死にたいと思ったりすることは毎日でした。
ぐちゃぐちゃな感情
反抗期が重なっていたこともあり、母親には大変辛くあたってしましました。本当は甘えたいし、この悔しさやさみしさをわかってほしい。母に話せば、どこまでも共感してくれ、抱きしめてくれることもわかっている。
だけど素直になれない。
素直になれなくて辛くて、会話をすると傷つけてしまうから放っておいてほしい。だから無視をする。ときには放っておいてよと声を荒げる。物にあたる。だけど本当に放っておかれるのは辛い。遠くから見守ってほしい。申し訳ないと、すごくすごくすごく思っているけど言葉にも態度にも出せない。お母さんのこと、本当は大好きなのに、なんでこんなに傷つけることしかできないんだろう。
そんな、整理できないぐちゃぐちゃの感情をどうすれば良いのか分からず、家に居る時間は母も私も本当に辛かったと思います。それでもいつでもそばにいてくれた母に対して、今私はどんな形で感謝と謝罪を伝えたら良いのかわかりません。こうして文章を作成している今も涙がこぼれてきます。
母は私と一緒に、私のぐちゃぐちゃと戦ってくれました。
そんなことを繰り返していましたが、一日中気分が荒れていたわけではなく、落ち着いている時間帯もありました。そんなときは読書をしていました。家の中での読書。陽の光を浴びたいと思い、ベランダでの読書。
不登校のまま中学校3年生になり、心はだいぶ落ち着きを取り戻していました。外出する意欲も出てきていたので、公園まで歩いていって、ベンチで読書をすることもありました。
この頃にはクラスも変わっていました。6月には部活を引退し、なんとなく気持ちが軽くなりました。部活の子たちは、私が不登校になってから何度も家に訪ねてきましたが、私はほぼ応じませんでした。
その子たちを憎んでいたけれど、会ったらどうせ愛想笑いをしてしまうことがわかっていたからです。そういう茶番みたいなことに疲れていて、だからといって面と向かって嫌だったことを相手に言う勇気もありませんでした。だから、会わない。ずっとその選択をしていました。
支えてくれる人
夏休みが来て、Tちゃんという友だちができました。もともと同じ部活に所属していたのですが、怪我をして退部した子です。早めの退部だったので私へのいじめには関わっていませんでした。クラスも別だったのですが、なぜか私にメールをくれ、夏休み中に何度か会いました。
一緒に夏休みの宿題をしたり、カラオケへ行ったり、たくさんたくさん話をして過ごしました。その子がなぜ私を誘ってくれたのかはわからないけれど、当時の私は外に出るエネルギーもあり、話をする相手を求めてもいました。そんなときに連絡をくれたTちゃん。
彼女もまた、多くの悩みを抱えている女の子でした。私の悩みも、詳しくは話せなかったけれど、どこか理解してくれているようで安心しました。その子の存在が心の支えになったこと、人間関係について「もう、いいや」と思えるようになったことで、私は3年生の2学期から学校へ行き始めました。
しんどい日は欠席したり、勉強がわからないからしたくないと先生にわがままを言ったりしたこともありましたが、無事に卒業できました。
数名の信頼できる友人、授業以外ではかかわっていないけれど見守ってくれた先生、そして全てを受け入れてくれて、辛くてもひたすら待ってくれて、私を信じてくれた両親。振り返るとこうした方々の支えがあったのだと、大人になった今だからこそわかります。
何だか卒業文集みたいになってしまいました。
(不登校を経て”(教員編)に続きます。
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