はいその2
趣旨やルールはその1にて。
前回はまだ、教育に触れていたからなんとなく正当化できましたが、
今回からはマジでひとりごとです。
でも面白いと思ったからよし。
当時の原文(をちょっと修正したやつ)
ぼくの大いなるひとりごと。PART 2
~神さまはいるのか~
これは僕の頭の中にある「面白いなぁ」を徒然書いたものです。
なので、先行研究や学術的根拠はないです。
特に興味のない人は読まずに燃やしてファームの肥料にして下さい。
さて、今回は「神さまはいるのか」という特に結論もない話なので
ひとりごとにはうってつけですね。
ぼくは神さまを信じていません。
おそらく多くの日本人がそうだと思います。
しかし、僕の知り合いには一家そろってキリスト教の方がいます。
なので日常的に神さま論争が勃発し「いるだの、いないだの」と
ケンカになります。
まぁ、それはさておき、
実際のところ、神さまはいるんでしょうか。
それを考えるにあたって、かの有名な哲学者、
デカルトが面白いことを言っています。
まずはそこからのぞいてみましょう。
デカルトがこんな質問をあなたに投げかけます
「あなたは完全か?」
それに対し、あなたはどう答えるでしょうか。
おそらく「不完全だ」と恥ずかしげもなく答えるでしょう。
するとデカルトはこう言います、
「『自分が不完全だ』ということは、相対的に完全なモノが存在し、それを認識しているということだ。
そして完全なものというのは、神である。よって神はいる」
と、ドヤ顔で言ってきます。
ぼくはデカルトのこのやり取りを読んで以来、
神さまいるじゃん!と思いました。
えぇ、人間なんて単純なものです。
さて、話はここから面白くなる。
「神は死んだ」でおなじみのニーチェはだいたいこんな感じのことを言います。
「悪からもっとも離れた私たちは善である。という思考(いわゆるルサンチマン)は人間の弱さが生み出す虚構である」
と。
かつてキリスト教信者(一般市民に限って)は社会的弱者でした。
そこでその人たちは
今、貧しくつらいということは善である。
だからこそ私たちが死んだ時には天国に行ける。
逆に言えば、
権力持ち、金持ちは私たちから正反対のところにいる。
善の正反対、よって、悪だ
だから奴らは地獄に行くのだ。
権力者は悪である。そして正反対の私たちは善であり、
私たちは善であり、その反対の権力者たちは悪である。
という反転した思考を用いて自己を保っていたみたいです。
マザーテレサもびっくりな二項対立。
(優しさの反対は厳しさではなく無関心という脱二項対立を唱えているわけですからね)
さて、ここでデカルトに戻りますが、
先ほどの不完全があるゆえに完全があるといったデカルトの理論も
これに当てはまるのではないでしょうか。
だとすると不完全を認識したからといって
完全が存在するとは限らないと考えることもできそうです。
つまり不完全と完全は二項対立しているわけではなく、
別物であり、
「不完全である」ということが
「完全の存在を肯定」しているわけではないのではないか。
ニーチェを読んで以来、僕は神さまやっぱりいねぇじゃん!と思うようになりました。
人間はやっぱり単純です。
しかし、最近思うのです。
神さまの存在を信じることと、
神さまを信じることは違うのではないかと。
存在として、確かにいるかもしれません。
だとしても、それによって自分の行動が何かしらの変化が起きるわけではない。
つまり、存在としてBelieve (信じる)
と
自分を預けるTrust(信用する)には差異があるのではないかと考えました。
あと、このように話題に挙がるということは
すなわち概念としての神の存在は疑いようのないことだと言えます。
例えばそうですね、
つまり、ポロリンクス(今僕が適当に作った言葉)
についての議論されることはないですよね。一生。
だって誰も知らないのですから。
すなわち認知もされないモノはすなわち「無」なのです。
存在しないのです。
なので、「神さま」はそういった意味でこの世界にいることは間違いないです。
認識されている時点で想像上のモノだとしても
存在は確定しているのです。
不思議ですね。
まぁ、パスカルも「考える葦」の話で、
人は物理的には地球の一部分にしか過ぎないが、
思考的にはこの宇宙をも包み込むことができるみたいなこと言ってたので、
神さまを越えることも可能なのかもしれません。
ま、結論としてよくわかりません。
以上です。
さて、次回は「考える」を考える、についてひとりごとです。
現在の僕の考察
ふむ。
興味深い。
ちなみにですが、この回から次回予告が導入されることになりました。
一回こっきりじゃなくて、もうちょっと続けて、という声を
ゼミ生から頂いたからだったからかな。。
ま、それはさておき、
この論争、個人的にはすごく好きなのです。
なぜかというと、
神様がいるかいないかというのは、
みなさん一度は口にしたことがある話題じゃないですか。
それを大昔の人も考えていた。
しかも「いる」という人と
「いない」(なんなら死んだ)という人がいた。
僕が現在神さまがいるかいないかということを考えるにあたって、
その人たちの言葉を聞く。
で、納得したり、わからなかったり、意見が変わったり。
まるで大昔の人と会話しているようだと思うわけです。
結論なんてどうでもいいんです。
大事なのはそれを考えるにあたって、
いろんな人の考えを聞くこと、
それによって自分の考えが変わっていくこと。
これこそが人生で1番
「おもしろいこと」
だと思うわけです。
それを当時の僕はやりたかったんでしょう。
だからこそ、ゼミで配布したり、人に配って話をしたかったんでしょう。
ちなみに最終的には全シリーズを印刷しまくって冊子にして
勝手に大学のいたるところに設置しておりました。
あぁ、なんだその行動力。
改めて読み返して思ったけれど、
ニーチェって神は死んだって言ってるじゃないですか。
ということは、やっぱり以前は信じていたということでもあるわけですよね。
存在しないものは死ぬことさえできないので。
だから偉大な哲学者だって、考えを変えることだってあるわけです。
ふむふむ。人の子ということか。
ま。「神が死んだ」の神が
お前らがなんか知らないけど信じている神さまというやらはもう死んだぞ。
という意味の可能性も大いにありますが。
ちなみにニーチェが死ぬ時、
やはり神を信じた。という説もあります。
ま、どっちでもいいんだけどね。
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